ひとつの実習中止に思うこと


昨日、職場実習2日目にして実習先のひとつから呼び出され、実習が打ち切りとなった。


知的障害をもつ生徒を実際の企業に10日間も預かってもらって実習をしてもらう取り組みは、受け入れ先の開拓から依頼、実現まで、並大抵なことではないのだが、いざ実施まで漕ぎ着けると、なんとかうまくいくことが多い。
それは、もちろん企業側の温かい目と、本番になると思わぬ力を発揮すること(ばかりではないのだけれど)が、なんとか補い合って保たれる、糸のような形をした成果である。


今回のように途中打ち切りとなってしまうケースは、年間にのべ250人近くを実習に送り出す我が校でも、(意外にも)あまりないことである。
そういうことになってしまうのは、大抵は、明らかに送り出した生徒の側の意欲や行動に問題のある場合で、平謝りして引き上げることになる。
しかし今回の場合は、能力面で不安はあったものの(そのため初日から巡回を入れて、よく様子を見守るようにしていた)、こちらから確認できた限りでは生徒の実習意欲は高く、学校としては本人なりに目いっぱいよくやっていると、評価をしていたケースだった。


話を聞いてみれば、前回の実習で「どういう実習生でないと対応できないか」を、企業側は伝えたつもりでいたのに、学校の進路指導部内でその情報がうまく共有されず、結果的に実習先の当てはめがミスマッチになってしまっていたらしいことがわかった。生徒には本当に申し訳ないことで、残りの期間、充実した校内実習で手当てしなければならないと思うし、うちの進路指導部にはもう少ししっかりしてもらわなければならない、とも思う。
企業の担当者からは、学校の姿勢について一通りの疑義をぶつけられ、私たちはこちらの不手際を深く詫びつつ、内心でその内容には若干肯えないものも感じながら帰ってきた。


「生徒の全員に「就労の可能性」を探って、基本的には全員に数多くの実地実習を体験させる」。それが、未だ開校から日の浅い、私たちの支援学校の取り組みのかたちである。
教育課程と設備の性質上、支援学校でありながら入学者決定検査を行っていることに、非難も揶揄もあることは承知しているが、それでなにか「平準化されている」と思うのは大きな間違いで、様々な障害を持つ生徒たちであることには変わりない。
全ての生徒たちにこの実習スタイルを貫いていくにあたっては、猛烈に汗をかいておいてから、相当にひやひやと綱渡りをするような日々を、全校で絶え間なく積み重ねている。
一般的な支援学校は、もちろんさらに多様な障害をもつ生徒たちと、学習や進路について悪戦苦闘している。しかし就労に限れば、「就労できそう」と見込んだ生徒について手を尽くす、という感じのはずで、我が校とそのような支援学校のどちらからも実習生を取るようなところ(そういうところは大抵、障害者雇用について老舗であることが多い)で、実習生だけを比較すると、危なっかしいのは大抵私たちの学校から行った生徒である。


担当者の話は「実習に来る支援学校の生徒はかくあるべし」、と言わんばかりで、結論的には「今回の生徒には実習をさせる値打ちがない」ということが繰り返された。
その内容には「たしかにそうであろう」と思った。その担当者が示したことができてこそ「社会人」であり、そうある上で満たさねばならないことしか言われていない。
しかし正直なところ、ちょっと嫌な感じがした。


これまでに障害者雇用の実績がある、ということと、今後の障害者雇用の拡大とは、質的に違う問題だったりする。
言い方は悪いけれど、「障害者」とカテゴライズされる集団の中でも、選びにかかれば優秀な人材は一定数必ずいる。
しかし、そのような者を選んだり、そうなりそうな者を優秀になるよう育てることは、私たちの仕事において、ごく一部に過ぎない。そこで選ばれない生徒、あるいは就労自体を希望することすらできなかったかもしれない子らに、「働く可能性」を見出し、彼らなりに「職場で役立てられる能力」を開発することこそが私たちの主たる使命である。
いわゆる「優秀」というのに比べると少しわかりにくいが、しかし「確かに使える能力」を雇用につなげられないか、企業側に逆に「見てもらう」ことも、数多い実習の中で企んでいるのだ。


利益を生むような何かが確実にできなければならないし、企業の中で社会人としてやっていく力は身につけなければならない。
しかし、すでにある、「『社会人』・『職業人』に求める姿」がまずあって、それとの合致点の有無や、それへの到達度で、「選別」したり、「教育の度合いを測ったり」するだけでは、多分ダメなはずである。


教育機関職業訓練機関は、本来相矛盾するものだと私は考えている。
世間は実際にはこうであるけれども、本当はこうであるものなのだよ、と真善美を指し示すのが教育の仕事であり、職業訓練は「教育」がなされたことを前提に、世の中とはこういうものであるから、理想的にはこうあるべきだが、この様にうまく合わせてやっていかなければならない、と叩き込むもの、だ。
たとえ支援教育であっても、就労支援を掲げていても、教育機関が、完全に企業が満足するような人材を提供するためのシステムになってしまってはおしまいなのだ、という(普段は表層に上らないが、変わらない)感覚は、芯のあたりに動かし難くある。
私がいるのは、その矛盾の真上にできたような学校なので、そのような矛盾の苦しみが存在しないかのように物事を進められると、いちいち引っかかりを覚えて苦しい。


今回感じた、「嫌な感じ」は、多分その線上にあるものだ。


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