ウェブで学ぶ


ウェブで学ぶ ――オープンエデュケーションと知の革命 (ちくま新書)
梅田望夫・飯吉透著の「ウェブで学ぶ−オープンエディケーションと知の革命−」を読んだ


「海の向こうでは、大変なことが起こっている」、という問題意識の持ち方は、どちらかというと古い感じがするけれど、ウェブの世界における潮流については、国際性を自ずと強く持つ英語圏での見え方が、日本ではあまりピンと来ないままになっているということは確かにある。


梅田望夫氏の「ウェブ進化論」はもう5年前になるが、もうある程度「出来上がっている」と何となく思っていた「インターネットの世界」というのが、その延長上のように見えながらも、実は質的な変換を伴ってこういう風に変わって行くのだ、ということに衝撃を受けた。いわゆる「Web2.0」ショックである。
(律儀にも、梅田氏が深く関わっていた「はてな」で)ブログを開いてみたり、偶々誘われたSNSにも入ってみたり、ということを、どこか半信半疑なまま始めたのは、それがきっかけであった。
その「ウェブ進化論」にも取り上げられていた、MIT(マサチューセッツ工科大学)のOCWオープンコースウェア)の衝撃から、オープンエデュケーションがその後どうなっているかを中心に書かれているのだが、全体として「ウェブ進化論」後の5年を解説する役割も果たす1冊となっている。


格差超越装置としての教育の姿が、改めて立ち上がってきたことに感動を覚えた。


学ぶということは、何物にも替え難く人に力をもたらすものであり、あらゆる人にチャンスをもたらすものである。
言わずもがなであるはずのそのことをはじめて痛烈に意識させられたのは、呉智英氏が「サルの正義」の中で「学歴社会批判の愚劣」として、教育によるエンパワメントが身分社会や門閥社会のアンチテーゼであることが安易に忘れ去られていると指摘する文章に接したときだった(もう20年も経ったのだなあ)。学生として、勉強にややもすると夢や希望より、疲れのようなものを感じていた時に、ああ、そうだったと強く反省させられたことを覚えている。
サルの正義 (双葉文庫)
しかし昨今は、高収入の家庭からでなければ難関大学へ通えない、という傾向や、経済的な動機付けで教育の制度や価値までもが語られ、弄繰り回されるようになり、「装置」としての輝きが再び曇りを帯びて感じていた。
それが再び、私たちはもちろん、先進国の低所得者にも、世界の「残り48億」の人々にも光をもたらすことを実感できる、痛快な展開だった。


自分が高校生だったころ、大学で学べることはどんなことか、何が新しい知として求められているのか、そういう情報は極めて限られていた。
アカデミックの世界にどんな研究者がいて、一体何をしているのか、何が学べるのかを一覧にする試みでもあった「ニセ学生マニュアル」などの本に、大学生になってから出会ってさえ、ああ、こういうことをもっとあらかじめ考えていたら、と思ったものだ。

今はウェブがあって、このようなOCWまである。知の世界への風通しが全く変わっていることだけでも、大きな羨望を感じる。


[fin]