令和を迎えて

令和に元号が変わった。


その元日となった51日は、連休明けの業務に大きく差し障りが出そうな残務の処理に、朝から夜そこそこ遅くまで職場のデスクに詰めた。


41日から、子どもたちの前から離れ、日がな一日デスクの前で電話を取り、上席とのやりとりに緊張し、複数の事務仕事と不器用に向き合う仕事に変わった。


周りはみな、果敢で、器用で、如才なく、ついてみるまで「こういう仕事」が苦手だとはあまり思っていなかったが、勝負できるようなフィールドではなかったのだなと痛感するとともに、これに長けていくことに魅力を感じていない自分に、これから先やっていけるのだろうか、と強い不安を感じている。


平成は30年に及んだわけだが、今でも昭和の終わりはよく思い出せて、年号というものが変わることの軽々しさに驚いた感覚も褪せないでいる。

30年にも及んだのだから、それなりに重みがあって、だから世間もそれなりに騒ぐのだろうけれど、私には「昭和」という元号(というか、シンプルに「言葉」)に比べて重みを感じられないままに平成が終わってしまったように感じられていて、令和をその平成その2、でもあるかのように感じている。


私にとって平成の30年は、高校時代から40代半ば過ぎまで、という「人生の最も若くて充実した時期」にぴったり相当するような期間にあたったことになる。

いわゆる子ども時代を昭和で過ごし、盛りを平成で迎え、令和は成熟と衰えの時期となるのだろうか。


キャリアにおける小さくない変わりめと、滅多にない元号の変わりめが重なり、変わりめ特有の不安に(特有であればよいが)、変わりめの前への評価も軽くなっている、のであろうか。


私なりに積み上げてきたものや、強みと感じていたことが、無に帰しているようなかたちで、日々を苦しく過ごしはじめている。

そんな不安とともに始まった令和の幕開けを、備忘のために、ここに記す。