それから


漱石の「それから」を読んだ。
それから (岩波文庫)


朝日新聞に続けて連載された4作、「虞美人草」・「三四郎」・「それから」・「門」のうしろ3つは前期三部作とも呼ばれる。
三四郎」は、間歇的に幾度か読んできたが、ようやく最近の再読で、ははあなるほどとなったので、「それから」にも手を伸ばしてみた。
「それから」も書棚にすでにあった。読むのも初めてではない。手にするのは10年くらいぶりだろうか。しかし、以前に読んだときには、代助の生活ぶりに対して距離を置くことができず、どんどん息が詰まって前に進めなくなってしまった。


世間的に「よくわからないけどなんだか偉くなるらしい」と、ただプロミッシングであることだけを担保にして寛容に見逃してもらう「長いモラトリアム」を、私もまた過ごした。「働く」ということに具体的なイメージを描けないまま、働くことによって失われる「代償」のようなものには、どこかで恐怖する、という点で、当時の私は代助とさして変わらなかった。
有名な小説であるから、当時も筋は読まずともおおよそ知っていた。モラトリアムの後ろめたさに対して慰めを与えてくれる話でないことをわかりながら手にとって、やはり途中で投げ出した。


人は様々な要素を内に抱えている。どこかだけ取り出してまじまじと見れば、大抵それらはへんてこで、薄気味悪いものである。
代助の特徴として執拗かつ克明に描かれる資質は、私の中にも、潜在意識のうちでも最も意識に近いところに漂っている嫌な部分と重なり合う。
ややもすると周囲の刺激に疲れてしまう神経の敏感さ、自らの生命や身体に対する執着、様々に言い逃れているかに見える思考の癖、見えすぎるが故に身動きが取れないのだと感じてしまう意識のあり方。
それらを代助とて長所として誇っているわけではない。自らの中にそういうものがあることを認めた上で、ただ「素直に」持て余しているだけなのだ。
人が、代助のような存在をどこか嫌ったらしく感じるのは、表面的には、消極に安穏に世間知らずのまま寄生しながら能書きを垂れる生き方にであろうが、その根には、資質を持て余す「素直さ」への戸惑いがあるのだろう。


その素直さは、ただの世間知らずの「坊ちゃん然とした暮らし」しか形作らないが、社会の様々な要請に自らの思考・感覚の自然を枉げずにいるにはどうしたらいいか、を具体化するときに取り得る生き方が、ああしかならない、ということを表してもいる。
「自然を枉げない」ことが自らが生き方として望んでいることなのだ、と明確に意識されたとき、かつて世間の友愛の形に囚われて三千代を失ったことに気づき、熱情を押さえがたくなってゆく。
三千代への「自然」を実現することが、それまでの「自然を枉げない」でいられた暮らしを失わせ、さらには世間の掟を破ることによる隔絶さえ招くことを知りながら、それを選び、世間に身を投じざるを得なくなってゆくところで話は終わる。


代助の父や兄のありかたや、変わりゆくかつての親友・平岡の姿は、代助のような立場の視点を経ることで、私自身に起こった「ありかた」や「感じ方」の変化に、ふと思いが及んだ。
終盤5分の1くらいは、ものすごいテンポで読んだ。


何というか、小説というのはすごいなと、漠然と思った。


[fin]