懇談週間終わる


今週は、三者懇談週間であった。


午後の学校に、十数組の保護者たちが、事前に調整したスケジュールに従って次々と訪れる。
一組1時間程度、という設定だが、少し早めに終わることもあれば、延々とのびることもある。


前後期制なので、この時期に成績の呈示はないが、ここまでの学校生活の様子を話す一方で、近年整備が必須となった指導計画や支援計画といった様々な書類の呈示と確認を進める。
また、いよいよ分属決定時期が迫り、学科選択についての相談が大きな部分を占める。


学科それぞれにある種のカラーがあって、私たちはそれぞれの生徒と合いそうなところがどこか、それなりにイメージして持ってはいるのだが、実際に希望してくるところがそれと合わないことも珍しくない。


学校は就労支援を主眼に教育することを掲げているが、それは学科名から直結する内容なり技術を「専門技術」として身につけさせますよ、という意味ではない。
本人が「頑張ってみよう」と思える学科で、(内容はそれぞれに異なっても)指示された作業をしっかりできるようになること、説明や指示を聞けるようになること、わからないことを尋ねることができるようになること、周囲の人と気持ちよく仕事のできる態度やマナーを身につけること、が最大の狙いである。
ある方面にはたぐいまれな能力を発揮することがある、とは言え、支援学校において身につけられるスキルがそのまま金儲けに直結するほど世の中は甘くない。具体的な仕事は、職場で学ぶのである。
目指すのは、学ぶ「構え」なり「習慣」なりを身につけさせることである。


しかし、具体的に学科の名前を前にする時、その専門技術を身につけて就職できるようになるのだ、という錯覚を、(本人はもちろん)保護者からも拭うことはなかなか難しい。


あまりにその学科で取り組む作業内容と合わない場合を除けば、素直にオリエンテーションの体験を通じて本人が「したいな」と感じたところを選んでくれれば、それでいい。
ところが、実際は友人のだれだれがどこそこに行くから、というようなことで振り回されたり、保護者が描き、期待する(実は障がい者枠の就労の実態からすると多くの場合現実的ではない)職業イメージに振り回されるケースが結構ある。


その一方で、反対に我々がはっと教えられるような保護者と遭遇することも、まれにある。


学科の先生に褒められて、そこに進もうかと思っている生徒がいたのだが、その父は懇談の場で、「褒められてその気になる」というのは、その学科の内容が好き、ということとは違う、とはっきり言い切った。お前が褒められた作業は、それ自体一銭の金にもならんレベルの技術だ、と。その先それで金になるようにするには、かくかくしかじかな内容までたどり着かねばならないが、そこまで褒められ続けはせん、褒められることだけを当てにして選んだら、結局お前はそれを途中で投げ出すことになる、いい加減な判断をするな。
その上でこの学校で身につけられる技術を自分なりに分析して、お前くらいの理解力と忍耐力で金になる可能性があるのはこの学科しかない、と本人を諭して翻意を促した。
その分析には、父なりの社会情勢の読みと、業種の分析が込められていて、こちらも納得させられる説得力があり、目の前でしばし繰り広げられた親子のやり取りにじっと見入ってしまった。


意見の鋭さはもちろん、自らの技術一本で会社を動かしてきた人ならではの「凄み」に、ちょっと懐かしいかたちの「父性」を感じた。このごろは、こういうのにはお目にかかりにくくなったと思う。


そんなこんなで、5日間にわたった懇談は無事に終わり、学科希望調査も出揃った。
例年であれば、さあ夏休み!というところだが、5月のインフルエンザ禍のために今年はまだまだ授業が続く。


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