新しい年を迎えて


一年の計は元旦にあり、なんてことを学生のころには言われたりしたもので、それなりに今年はどんな年になるだろうか、なんて不安やかすかな期待に武者震いするような思いが年明けにはあったものだった。


ここに書いていることを少し読み返すと、年末年始を挟んだこの数日も、目の前の出来事にただ追われるばかりで過ぎていることがよくわかる。
1年、あわよくばもっと大きなスパンの見通しや抱負のようなものは、まるで持てないままに過ぎた。
「生活態度」という面では、そう瑕疵はないと思うけれど、「計」もまた、何もない。


暮れに年賀状にコメントを書こうとして、さしてこう、出来事のほかに、伝えたいと思う何かがないことに少し愕然とした。
公表するに値する、あるいはあらためて宣言したいちょっとした思いが、ない。また過ぎ行く年について、何かこう、うま括ることのできるような言葉も見つからない。
友人たちの年賀状を受け取ってみると、それなりに頷かされる一言が書かれていたりして、考えさせられる。


わたしは「その場」や「ある事象」にどう対応するか、に終始する生活をしている。
それ以外に本当に取りうる術がない、と言うには恵まれすぎた生活を送っているはずで、そこにはどうも敢えてそうしている、という部分がある。何か信条や確信が背景にあるのかと問われれば、答えには窮するが、「ない」とは断言しない。


実現したい姿があって、そこに至るための目標をできるだけ細かく立てて、それを随時検証する、というようなあり方に、素直に肯えないところが私にはある。
メンタルなものをサポートしようとするプログラムのほとんどは、そういう思想を「当然のもの」として前提にする。スポーツ選手あるいは指導者の端くれとして、無縁でいられないそれらに関わるとき、いつもその思想(というより、それが自明であるとする文化)に対する違和感と葛藤するところから始まる。
何らかの変化を志向している時に、その変化の手前にいる「私」が描く「実現したいこと」など、的外れでなくてはならないし、大したものでもないはずだ、と思う。「現在」の私に見通せる「枠組み」から逸脱しないことを無自覚に自らに課してしまうような、「目標設定行為」など、「百害あって一利なし」ではないか、と心の底で思っている。


単純に、例えば「メダルを得る」、というような目標だけを背景から切り離して考えられるならば、この思想は「自明」と言っても大して間違いでもないし、罪もない。
でもそんなことは現実にはありえない。
そこまで生きてくるまでの中には様々な当然の柵があり、その後、何かを目指して歩むその間にも人生は進みゆき、そこには必ずあらかじめ予想することなど不可能な、前提としてきた枠組み自体の変更や価値観のものさし自体の変化が伴うものだ。


わかりやすい絵は、ウケる。
しかし「わかりやすさ」のために捨象されてしまう事象にこそ、地に足の着いた「強み」が宿っている。「その時」、「その人」にしかない一回性を尊重する姿勢こそが、それを生かす。
その人の譲れない何か、も必ずそこに隠れている。


私はそう思う。


じゃあ、そういうことが私の生活態度を支え、裏付けているのか、と改めて問われると、それもまた違和感がある。


言葉にする努力が必要なときは、節々に確かにある。
それを、新しい年を迎えた時にする、という習慣にも、とても意味があると思う。
でも、今の私は、ちょっとそれは先送りにしようかな、という気分である。


言葉にならないけれど、しかし確かに心の中にある譲れない何か、を遠まわしにしてつつきまわしながら新しい年を迎え、わたしなりに歩み続ける。


[fin]