朱子学と陽明学


島田虔次の「朱子学陽明学」を読み終えた。


朱子学と陽明学 (岩波新書 青版 C-28)
日本に生まれ育つ中で、儒教文化として知らず知らずに浴しているのは、その源となる「論語」から直接に個々が読み取ってきたものよりも、時代時代で体制を支えた人々の教養として学ばれ、また統治に積極的に利用されてもきた「朱子学」の残光の方が多いのだろう。そんなことに思い及ぶ機会があって、しかし、「朱子学」とか「陽明学」というのはそれこそ「日本史」を勉強した時に、文化史のワードをいろいろ覚える中で様々な学者の名前とともに頭に放り込んだだけだな、ということにも気づく。


儒教的な規範に縛られることが常で、そこからの自由であったり新思想がある種の若さの必然だった世代には、その儒教的な内容は振り返る必要もないほどに、(負のイメージに塗れるとともに)自明だったかもしれない。80年代に中高生時代を送った私にとっては、今よりは肌に感じるものはあったと思うが、そういう影響を負の影としてまともに受けて苦労したとは言いがたい(もっともそれだけ「まともに受けた世代」よりも、地域や家庭間の格差が大きかった、ということも言えよう)。「儒教文化」から見て(そんな見方はあまりしないのかも知れないけれど)「少し遅れた」世代となったことによる私たちの「影響」だろうと思うのは、「若者のとるべき振る舞いや姿」として、「儒教的な文化の負の影に反逆し自由を叫ぶ」しか、モデルとして存在せず、それに代わるものは「模索」せねばならなかったことだ。戦う対象がすでにないのに、単純にモデルをなぞったり、「反逆のポーズ」に固執して「新しいバリエーション」に腐心する同世代を、どこかこっけいに思ったり、違和感を感じたりしつつ、どうやり過ごしたらいいかわからなくて、耳を伏せた犬のようにして中高生の時代を過ごした。
「おたく」文化初期の滑稽な感じなんかは、こういうこととたぶん関係がある。
今だって当事者である若者にも一定数いるのだろうけれど、「若さ」っていうのは、上の世代からは見当はずれな持ち上げ方をされたり、貶されたりする、居心地の悪い時期である(でもそんな風に感じること自体が、表向きは流行らなくなっていることが、若者の「変化」、であり、今の有り様だとも、思っている。この「居心地が悪かろう」というのも、もし私が今の時代に「若者」だったら、そう感じるだろうね、ということでしかないわけね)。


「居心地の悪さ」を感じているときに、それを解明しようと向き合い、根源への歩みを助ける「古典」なんかにもっとぶつかっていれば、私の青年期の様相は変わっていたかも知れないけれど、「曖昧な違和感」の解決法がそういう「地道なもの」だとわかるほどには聡明でなかった。今振り返ると、そういう聡明さを持った子は友人達の中に確かにいて、しかしその「地道さ」は決して目立たなかったし、目立たないものは侮ってしまう、という悪い癖も私にはあった。
80年代という「時代の空気」もまた、そういう「悪い癖」を帯びていたと思う。たとえば当時、若者の知へのアクセスとして重要な文庫本のラインナップは、それ以前や現在よりもずっと軽薄で、当時を除いて現在は再び収録されている、という古典は和洋を問わず多い。


すっかり話題が横滑りしたが、「朱子学陽明学」である。
支那の思想というのが、どう受け継がれ発展してきたかを、極めてわかりやすく俯瞰させてもらった。朱熹王陽明などの名前くらいは知っていたものの、あまりに無知であったので、確たる思想の系統の存在、論争、知で身を立てる壮士の生き様など、いちいち、へえ、ほう、と唸っているうちに読み終わってしまった。論語の解釈を通じて、こうも思想というのは進み、深まっていくものなのか。日本における荻生徂徠の解釈が独創性をもっていることも、彼地の流れの中に位置付けられて初めてよくわかった。本書の中で触れられている部分に関しては、私自身にとって徂徠の物が一番しっくりと受け止められて、群を抜いて優れているように映った。
どうして私はこういうことをこんなに知らなかったんだろうか、というのが読み終えた感想である。
高校なら「倫理」が扱う領域なのだろうか。汗かきでまじめで不器用そうな非常に愛すべきキャラクターだったI先生の顔が、ふと浮かんだ。I先生は壮絶な闘病の末、在任中に亡くなられたという。亡くなられる年まで教壇に立ち、死の直前に担当していた生徒たちの書類をすべて仕上げて自力で届けられた、というエピソードを人づてに聞いた。それからでも、もう10年くらい経ったろうか。私はいい生徒ではなかった。元来こういう領域の話は当時も嫌いではなかったはずなのだけれど、受験が頭に常にちらついてしまうような「そこそこの高校生」は、どっしりした話を落ち着いて聞けないところがある。だからといって、大して効率のいい勉強や生活をしていたわけでもない。青年期というのはつくづく青年にはもったいないものだ、とは当時ある先生が漏らしていた言葉だが、その通りということか。


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