世界の向き合い方と音楽


音楽というのは、聴きたいものがどんどん変わるものだな、とこのごろよく思う。
iPodにどかっと音楽を入れられるようになって、その変化が鮮明にわかるようになった。


どれも聴きたくて入れたもののはずなのに、あるものがすごく聴きたいときに、そのすぐ隣にあるものは全く聴きたくなかったりする。
なんとなく気をつけていると、状況と聞きたいものの関連には、ジャンルといった一般的なくくりとも少し違う、あるグルーピングがあるようである。


「あるようである」という以上には、今はうまく分析できなくてもどかしいのだけれど、自分の中の、ただの趣味や好悪でしかないような、こういうユニークな分類法や傾向のようなものにも、もし把握できたとしたら、そこから新しくわかることがありそうに思えてならない。


そこには、同じ音楽を好む人が独特の一体感を感じられることの理由、なんていうのも含まれるだろうし、ある音楽がもてはやされたり廃れたりする構造、みたいなものもきっと含まれているだろう(何がこれからもてはやされたり廃れたりするか、はわからないと思うけれど)。


過去に親しんだ音楽に触れたときに強い懐かしさを伴うのは、それを聴いた時々の出来事や景色を想起させるからだと思うのだけれど、想起させるものは、それだけではないような気がする。
普段は気づかないほどわずかずつに移り変わり行く、世間が「世界」と向き合うときの角度のようなもの、それが「今」と異なっていることを感じさせる力が、音楽にはある、と勝手に思っている。
音楽が想起させた「出来事」や「景色」がそうさせるのだ、と言われるかもしれないが、書物や写真を使ってそれらに触れたときと明らかに感じ方が異なるのは、音楽の力によるものなのではないだろうか。
ベストオブくるり/ TOWER OF MUSIC LOVER
いままでのやのあきこ (DVD付)


読んだ本が立て続けに、自分の住んでいる世界を正攻法で分析し、普段の生活範囲を超えた、時間的空間的に長く大きな視野で理想について考えるものだったこともあって、いつもと変わらない生活をしながらも、いちいちそこでの手触りのようなものが変わっているように感じる。


これまであまり聴きたいと思うことのなかった、矢野顕子くるりが無性に聴きたくなる。


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