聖典「クルアーン」の思想


聖典「クルアーン」の思想――イスラームの世界観 (講談社現代新書)
著者の大川玲子氏は、私にとって身近にありながら、縁のなかった人である。


中高と同じ学校、同じ学年で過ごした。
たかだか160人強、4学級の規模で、6度のクラス替えを経ても一度も同じクラスにならなかった。
クラスの壁を越えた委員会や行事の取り組みも盛んな学校であったが、それらで一緒になる機会も皆無であった。
しかし、すごい子がいる、とは人づてに幾度も形を変えて伝わってきたし、その内容も、ちょっと張り合うことすらできないほどに次元の高い感じで、自分も時間をかければそういう風なものに近づくことができるのだろうか、と当時にしてそんなことをぼんやり思ってしまうくらい、「距離感」を感じさせるものだった。


直接に触れたのは文集に書かれた文章ぐらいだったが、それはちょっと、何と言うか、明らかに自らのいる場所に対する物足りなさと、さらなる高みを求めるに当たって、未だ自己に足らざるものを厳しく表明するようなもので、しかも子供心にもはっとするような、異次元の完成度の文章であった、と記憶する。
掘り起こして久しぶりに読んでみたら、文集の中で、その文章だけがやはり異彩を放っていて、しかも全く「若書き」という感じでない。当時感じた印象は、まずまず確かだったのだ、と思った。


日曜日の新聞の書評欄を見ていたら、大川氏の「天の書」に関する新著が大変好意的に紹介されていた。
久しぶりに氏の名前を目にして、「縁はなかったが、今となっては大した縁でもあるな」と、背筋の伸びるような感じがした。


氏が、イスラムについての研究、なかでもクルアーンコーラン)が専門であること、第1作の本書「聖典クルアーン』の思想」が、入門書として独創的かつ優秀な本と評判だったこと、を(同窓会報などで)知っていながら、これまで私は手にしてこなかった。
今回、紙面で紹介されていた本よりもまず、この第1作を読んでみることにした。


井筒俊彦、という大イスラム学者がいた。
私の知る範囲の「最近」まで現役だった方々の中では、一般人にわかりやすい「碩学」として、漢字学の白川静氏と双璧をなす。
その「すごさ」への憧れから、岩波文庫からいくつか、井筒氏の書かれた物を読んだことがある。
読んだ動機が動機であるから、今となっては、そこで得たものは何とも心許ない限りなのだが、なんと言うか、他のキリスト教ユダヤ教との位置づけや、クルアーンと聖書・福音書など他の「預言」との関係など、素朴なポイントがわからないことで躓いた記憶がある。全体の見える、引いた視点からの説明のようなものに飢えるような感じがあったように思う。


聖典クルアーン』の思想」は、コンパクトな新書ながら、そういう「飢え」に対してバチッとフィットした、とてもいい本だった。
また、天の書と預言の関係など、新しく知ることがたくさんあった。
イスラムに関するあらゆるものに対する「入門」として、薦められる1冊だ。


身近にいた人が書いているのかと、読み終わってからまたふと思い、やはりわが身をなんとなく振り返ってしまう。
自分の中で、私なりにいろいろなハードルを高く設定するようになったのは、こういう人たちが(氏に限らず)周囲にいたことと無縁ではない。
自分への評価は、自ずと厳しくなりがちであった。
それくらいで「いい加減」であった、と私は思っている。
のびのびとはしないが、嵩上げされていない自信は、そこそこ後で使い物になる。
嵩上げされているくらいのほうが、「学校生活」には華やぎがあるのだけれど。
「後で使い物になる(かも知れない)」ことと引き換えに「非常に重苦しい中高生時代」となっていたことは、釣合っているのかどうかわかりかねるが、そういう環境であったことに、大きな価値のひとつがあることは疑いを挟まない。
今は感謝するばかりである。


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