練習のためにでかけること


「練習」だけをしに、射撃場に行った。
それだけで、トピックにしたくなるほど、「練習だけ」のために出かけることは、今の私には稀有なことである。


50mの立射−膝射と練習をする。


立射は、これまでに最も詳細に試行錯誤を繰り返してきた姿勢である。
静止を中心にした制御が進むにつれて、下手なのを自覚しながらも誤魔化してきた「方向取り」の技術の粗雑さが目に付いてきた。
非常に基本的なことと思われるが、自然狙点の左右のコントロールが、どうも精密にできないのである。


立ち位置を気にする姿が、学生を中心によく目に付くが、私は、あれはちょっと違う、と昔から思っている。
射座環境に応じて、最も便利な位置に立った上で、狙点を標的の方にコントロールできなければ、「方向取りの技術」とは言えない。


うまくできないと感じているのは、「構えた時に、『視覚を除いた感覚』で把握した銃身の方向感覚と、実際の銃身の方向とを一致させる『感覚の把握方法』」、あるいは「一致していない時に『能動的にその両者を近づけるための手続き』」が、腑に落ちたものになかなかならない点である。
「こうなればまっすぐになるはずだ」と自明の前提にしている感覚要素の中に、実はそうではない、という嘘や誤解がまじっているのだろう、と睨んできた。


今日は、支持腕を中心にその辺を洗ってみた。
手っ取り早いのは、ある「イメージ」として、正しい感覚要素を過不足なく総合した「イメージ」を作ってしまうことなのだが、この「過不足ない」というところが難しい。イメージはすぐ一人歩きして、他の技術を崩すことがある。
初めは分析的にやっていたが、続けられなくなって、試しにイメージの方からいじってみた。たまたま射線が合う時と合致しそうなものが拾えたので、今日はそれでひとまずよしとする。
そのイメージのよしあしや内容を構成している要素の分析はまた今度だ。


ここまでで時間を取ってしまって、前回の試合で頸周りなどに違和感を感じた膝射の練習は、少ししかできなかった。
とりあえず、違和感を取り除く変更だけ試してみて、そこは解決できたので、慌しく片付けた。


試合前に変更だけして、きちんと試しさずに臨むのは、実はとてもよろしくない。
時間がないことによる弊害、の最たるものだが、目をつぶるよりほかはない。今回の変更が当たりであることを祈るばかりだ。


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