日本辺境論


内田樹の「日本辺境論」を読み終えた。


日本辺境論 (新潮新書)
妄想的なくらいに巨視的な視点に立たないと見えてこない「深層構造」と、それに基づく大きな「物語」が失われつつあることの物足りなさについては、私自身も潜在的に持っている関心事について、いきなりうまく言い当てられた感じがした。
「物語」喪失に伴う世の中の見通しの悪さは、「物語」の困難、という状況の変化として片付けられることが多い。しかし、はじめから「自分の領域」だけに閉じこもってしまい、「領域を守らないことへの不寛容」という形で現れる、知の怠惰もあるのではないかと思う。


しかし、ただ大風呂敷を広げればそれでいい、というわけではない。
大きいけれど安っぽい物語に堕ちないためには、あらゆる論点について、「どういうスケールで対象を見るか」という、時間的な幅、地理的な広がりへの強い自覚とその吟味を怠らない姿勢を忘れないことだ、という指摘には、なるほど、と思った。「どうしてそのスケールで区切るのが適切なのか」ということについての吟味がおざなりですむ現今の知は、ややもすると大きな物語を語りえなくなっており、現在は、そこから自由になって語ること自体に大きな意義があることがわかる(そういう行為に対する不寛容には、内田氏自身がいつも晒されている)。


で、「日本辺境論」である。


初期設定のない国とある国の相違。
他国との比較でしか語れない「日本」という自国。
海外との接点で繰り返し現われてきた、コンテンツよりもマナー、思想・行動の一貫性よりも、場の親密性を優先する態度。
現在強い権力を発揮しているものとの空間的な遠近によって自分が何ものであるかが決まり、何をすべきかが決まる、という個人とその集合としての国家。
ここでないどこか、外部のどこかに世界の中心たる絶対的価値体があり、それとの距離の意識に基づいて思考と行動が決定される、「辺境人」としてのメンタリティ。
「現実は、常に作り出され行くあるもの或は作り出され行くものと考えられないで、作り出されてしまったこと、いな、さらにはっきりいえばどこからか起こって来たものと考えられていることである。『現実的』に行動するということは、だから、過去への繋縛のなかに生きているということになる。」(丸山真男
未来を志向した理念は(オリジナルには)決して生まれない風土。
状況を変動させる主体的な働きかけはつねに外から到来し、私たちはつねにその受動者である、とする自己認識の仕方そのものが、日本の国民的アイデンティティであること。
諸国の範となるような国は、もう「日本」とは呼べない、といわんばかりの歴史上の様々な判断は、明らかにこの国の本質的な何かをはっきり表している。


このように、辺境の意味を踏んでゆく論旨に、ふんふん、と楽しみながらついていったけれど、その山場となる第3章「『機』の思想」では、先駆的に知る、という話に入る。
氏のテーゼのひとつとしてこれまで繰り返し取り上げられてきたものなので、そうだなあ、とこれもあらためて振り返るようにして読むが、はじめのうちは、なぜここでこの話になるのか、という違和感を覚えた。


ヘーゲルやカント、ハイデガーの難しさのひとつには、私(たち)にとっても共通に引っ掛かりを感じる問題を取り上げていながら、最後に「なぜそういうことになるのかな」と違和感いっぱいの終わりかたになる、ということがある。
これは、彼らが「『自らが中心にいることに慣れた』宇宙観に基づいた把握」に落ち着く、からであり、その宇宙観に共感できない・腑に落ちない、ことに原因がある、という指摘に、「そうか」とひざを打つ心地がした。


それが私たちの世界観の本質、「辺境性」なのだとわかって、ようやく深く納得する。
そして、その「自らが中心にいることに慣れた宇宙観」に感じる違和感と、前駆的に知ることをごく自然に受け入れてしまう「辺境性」に根を持つ宇宙観は、悪いものではなく、これが(主張する、というような行為とはどうにもうまくかみ合わないものだけれど)間違いなく「アイデンティティ」だということを実感したのだった。


自らの立つ「宇宙観」を知ることによって、それと異なる宇宙観のもとに育った人と「共有」することの難しさにようやく思い至ることができる。
その実感によって、はじめて「寛容」や「受容」、「普遍の必要」に思い至ることができる。


一瞬「迂回」かと見えたが、「自分の何が共有されないのか」という懸隔は、ある種の飛躍を伴う高度な認識においてこそ明瞭に現れる。「機」の説明は、その素材として(私自身が面白がっている内容であるからということもあるけれど)、なかなか絶妙で、これ経ることではっと強く「懸隔」を実感することができた。
「違和感なく自明にしているものを自ら引き剥がすことの難しさ」を感じるとともに、辺境性についても理解できた気がした。


[fin]