ジョナサン・エドワーズの三段跳び

http://www.dailymail.co.uk/news/arti



射撃というスポーツでは、再現性、ということが大きなテーマになる。


特に、インドアで精度の高い空気銃を使う10m競技は、風も光も一定の安定した環境の中で、自分の体や心をいかに制御するかだけを競っている。
そこに存在するのは、ただ、銃を持ち上げ、毎回同じところにある静止した標的を狙う、という動作だけである。


10点を出すだけなら、初めて銃を構えた初心者でも(何回か撃てば)出すことができる。
少し練習をするようになると、「いまのは完璧だった」という「静止−撃発」を経験することがある。そんなに長い期間を経なくても、練習一色というような日々を送らなくても、そういう1発を経験することは珍しくはない。
そのうまく行った「1発」だけを取り出せば、オリンピックチャンピオンも練習を始めたばかりの素人射手も変わりがないかもしれない。
しかし、40発なり60発なり続けて撃って「いい記録」が出せるようになるには、そこから遥かな隔たりがある。


繰り返すことを前提にしたシンプルな動作を繰り返すことを競う。その中で、繰り返せそうな動作なのに、高い精度を求めていくと意外に繰り返せないことを突きつけられる。
「初心者のまぐれ」でも「10点」という、1発で得られるものとしては最高の結果が、単発では得られることがある、というところにこの競技の罠がある。


再現性の難しい競技、から考えると景色が違って見える。
相手のある競技はあまり参考にならないが、陸上など自分のパフォーマンスで完結しているものは、射撃以外にもたくさんある。
たとえば、室伏選手のおかげで日本人には親しみ深いハンマー投げ。道具を使わないものの中では、三段跳びあたりが、再現性の難しさがわかりやすく見える競技だなあ、と思う。


1995年、イエーテボリの世界陸上だった。テレビをたまたま観ていてジョナサン・エドワーズという、あまりアスリート然としていない、一見思索家のようなイギリスの選手が、世界新記録を出すところにリアルタイムで出くわした。
三段跳びは、うまく行く試技とうまく行かない試技で、平気で1-2mの違いが出る。
ジョナサン・エドワーズは、直前の国際大会で10年ぶりに世界記録を更新して「夢」といわれた18mにあと2cmに迫っていた。わかりやすい「壁」の突破への期待から、珍しく三段跳びは注目を集めていた。
1回目の試技でいきなり18cm更新して18mを突破。興奮さめやらぬスタジアムで、2回目さらに大きく記録を伸ばし18m29cm。
抑制された表情で淡々と一人別世界を切り開く姿に、下宿の小さなテレビ画面を前に身震いしたことを覚えている。


1996年のアトランタ五輪でケニー・ハリソンという選手が、史上2人目となる18m越えでエドワーズを破ったが、エドワーズ以外の選手が18mを越えたのは後にも先にもこの時だけである。エドワーズが1998年に18mを越えて以降、もう10年以上になるが、公式に18mを越えた三段跳びは記録されていない。


記録達成後、エドワーズは病との闘いがあって低迷するが、再起を果たしてふたたび18mを越え、世界チャンピオンに返り咲いた。名実共に史上稀な偉大な選手であったから、この世界記録は単なる「僥倖の一本」でも「奇跡の1本」でもない、説得力を持つ記録となった。
しかし見方を変えれば、この日6回の試技で18mを越えたのはこの2本だけだったし、この前にも後にも、この記録を超える跳躍は二度と行えなかった、ということもできる。


身体の故障や衰えがないのに過去に出した自己ベストに遠く及ばないまま大会が終わることはよくあることだし、その後何年も及ばない、ついに及ばずに終わる、ということさえ、実際には珍しくない。劇的な更新劇の後でそれにごく近い記録まで何年も経て肉薄したエドワーズは稀な例だとさえ言える。
偶然の組み合わせで出た、結果的に最高となった「たった1度のパフォーマンス」がその人の「記録」となるところに、射撃とは反対に、陸上競技の罠があるなあ、と思う。


同じ筋肉、同じからだでも再現できない。
その瞬間だけ組み合わさったタイミングや角度
それが「起こった」身体だった、というだけの、記録樹立者の栄誉。
技術として再編できず、本人の中にも印象以上に何かが残ってはいない。再構成すべきピースはたくさんの他のピースの中に散逸して選び出せない。
(本人の談話にもその「わからなさ」は滲んでいる。http://agenceshot.free.fr/athletics/edwers.html


奇跡の一瞬は何にも代えがたい感動的なもので、それを呼び寄せるまでの積み重ねにも揺るがない価値がある。
しかし達成したことは、「できあがった」・「確立した」というのとは少し違うなにか、である。


競技の性質のせいで、ある水準以上を評価の対象としては切り捨てているが、10.9に弾が当たったパフォーマンスの中にも(弾着、という側面でなく)、限りなく様々な高さのパフォーマンスが含まれていて、その中には「同じ筋肉、同じからだでも再現できない」技術として確立のしようがないくらいの高みから、初心者のまぐれ当たりまで様々なものがある。
しかし、問われているのは、その高みの「高さ」ではない。繰り返しても繰り返しても(たとえば究極には)10.9というラインを下回らない「技術」の確立の方である。


エドワーズが「技術」として「確立」できていたのは、どのくらいだったのだろう(距離で表すものなのか、ほかの何かで表すべきものなのか、それはわからないが)。


エドワーズほど他から卓越している場合は、その記録と技術ともに、ナンバーワンであったことは揺るがない。
しかし、これほどまでの差がない場合には、最も高く技術を確立した選手が、一度きりの爆発的な記録を出した選手に、最高記録で劣ってしまう可能性は、常にあるのではないかしら、と思う。


そのあたりを左右しているのは、「本番に強い」とかいうのと、(もちろん強くなくてはならないのだけれど)少し違う要素のような気もするのだが、どうだろうか。


変なことをぐだぐだ考えているなあ、とどこかで思いながらも、ふと湧き上がったことを記してみる。


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