射場整備と練習


「8時半から午前中いっぱい射場整備、午後は無料開放。ただし雨天時は中止」
ということに、今日はなっていた。


小雨がぱらつく空を眺めて、「ないかも」とは思ったが、家から射場まで2時間弱、その間にどうなるかわからないし、私の射場行きに合わせて相方と娘は実家に帰る予定にもしていたので、早々に家を出た。


実家で二人を下ろすと、そのまま射場に向かう。
着いてみると、ざっと10人強は人がいて、「雨天による中止の方向だが、人が集まってるから少しやる」というちょっと恨めしい結論。
早朝のうちに、「やるのかやらないのか」と問い合わせてきたクラブには「中止」と連絡したらしい。


射線より前に散らばった空薬莢の回収、50mレンジの草抜き、標的箱の鉛の搬出。
結果的には、雨中で作業は延々と続けられた。
草抜きの労力は想像できていたが、50m射場のバックレストから鉛を回収する作業の大変さには参加者全員が参ってしまった。


金属箱の中にゴムチップが詰められていて、そこに標的を通過した弾丸が撃ち込まれる構造になっている。
ゴムチップの効果は絶大で、奥行き50cmほどの箱なのだが、この中で鉛の弾丸が完全に吸収されるばかりか、多くが発射された時の形状のままである。
しかしこの箱の中身から鉛だけを回収する方法が射場にはない。第一、バックレストからこのゴムの断片にまみれた大量の鉛くずを集めて、射場の外に運び出すのが大変なのである。さすがに重金属だけあってちょっとした嵩でも無闇に重い。
しかも体に悪い・・・。
雨具にゴム手袋にマスクという酷暑スタイルで、重い鉛をショベルで掻き出しては一輪車に放り込み、起伏の多いフィールドを越えて外へ運び出すこと数十杯。
外では、ふるいにかけて上にゴム片を集めては柔らかい箒でかき寄せて除き、下の鉛を土嚢袋に移す、という作業を果てもなく繰り返す・・・。


正午前にすべての作業をやり終えた。
全員くたくたである。・・・どこが「少し」だ。


それでも、昼食を摂ったら練習したくてうずうずした。
用意してきたARで練習をする。


10mを練習するのは久々である。
先日、福岡で失意の底に叩きのめされた後であるので、いつも以上にじっくりと練習をする。


身体の感覚に集中して、ストイックな練習ができた。どうも50mではそういう練習ができていない、ということに気付く。何も、ここ最近のことでなく、ずっと。
冬場10mしか練習できない時期にいい射撃ができている、というのは、その練習だけしていて「混乱がないから」と単純には言えないのではないか、という気がした。


終わってみてつらつらと考えるに、私が貧乏性なせいではないか、と思う。
1発に20円も30円もかかるような弾薬を使っていると、ひとつの姿勢だけについて100発、200発、300発と自分を追い込んでいくような練習がどうしても素直にできない。
どこか気がそぞろになって、つい1日の全体の練習バランスのようなものに注意が向かって、3つの姿勢それぞれに満遍なく「課題を拾う」ような姿勢になっていく。


練習の成果に関する記述や分析は、「課題を拾う」ようなものになるので、そちらから発想すると、それで何が悪いのだ、という風にも見えるけれど、鍛錬や稽古の本態はちょっとそういうのとは違うものである。
理屈を越えて、ストイックに追い込んでいく中で、少し位相のずれたところから観察するもう一人の自分が「課題を拾った」り「分析した」りしているのである。

10mは、弾や標的の費用が十分に自分で負える範囲のものであり、競技姿勢についても「立射」ひとつを突き詰めることが許されることから、自分の中で「無理なく修練が噛合っている」感じがする。
強くなるにはなによりもそういう競技自体や練習の積み上げについての「しっくりした感じ」が大切で、それが掴めれば8割方成功したといえるのではないだろうか。どんどん自分で練習方法を(正しい方向に)工夫できるようになり、自分を追い込むこともできるようになってゆく。


「噛み合っている感じ」や「しっくりした感じ」というのを、自明のものとして軽く見ず、そのことにこだわって大切にしていくことが必要なのかもしれないな、と思いながら一発一発撃ちこんだ。
いい練習ができた。


[fin]