口内炎がひどい

口内炎が大変なことになっている。
国体の途中からできはじめた。職場を離れて、勝手のわかった空間に移り、睡眠時間なんかも人間的な長さになって、少しほっとしたからかもしれない。


いったん身体が口内炎罹患モードに入ると、しばらく治らないので憂鬱だが、どうしようもない。国体後は、身体を労ることなど全く不可能な生活なので、ひたすら口の中の痛みには耐えるだけだ。


仕事がうまく捗らず、時間がやたらかかるのが、日々当たり前の今年。仕事場ではひたすら食べることで凌いできている。脳が無駄に糖分を浪費するから、でもあろうし、ストレスのはけ口、ということもある。
前の職場でも、私のかりんとう好き、デスクで食べるお菓子の多さは、呆れられていた。今の職場でもおそらく、大丈夫かこいつ、と思われているだろう。近くに業務スーパーがあるのを幸いに、カントリーマアム、雪の宿、ホームパイ、ハーベスト、ココナッツサブレー、など定番の大袋を定期的に仕入れては、バリバリ食べながらPCや本に向かっている。


身体には悪かろう。大量の糖分は身体を錆びつかせる。射撃の好成績など望むべくもない。身体のエネルギー効率は相当によくないようで、それでも体重は、転勤後、減りっぱなしだ。
しかし、不思議と口内炎は、(私にしては珍しく数カ月という長い期間)しばらく影を潜めていた。


今回の口内炎、唇は左の上下、口内は右、舌は左右側面に舌先と、入り口すべてをガードする勢いで、口内炎との付き合い30年以上の私も閉口している。必要最低限の食事以外は取る気にならない。


身体がとうとう「糖分拒否」に出たかな、と考える。それでも、どうしても頭が糖分欠乏を訴えるときに、顔をしかめつつ、ぼそぼそとかじる。まあ、こんな状態でもお菓子に手が伸びるのは、本人の疲弊感をよそに、まだ余裕が残っているということか。


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今年度初練習


ブロック予選を、冷や汗をかきながらも2位で通過し、いよいよ本大会が2週間後に迫ってきた。
仕事のほうは、3日間大会で休む分まで整える、どころか、夏休みがあけて間もないのに相変わらず自転車操業に毛の生えた程度で、さきのことを少し考えただけで気の重い状態が続いている。
2週間続いて土曜日授業で、昨日は課題研究がらみの引率なんかがあったりして、三連休も無傷の日は今日だけだった。


いくら「普段練習しない種目」とはいえ、さすがに昨年の国体本戦で撃ったっきり、次が翌年の本戦、なんていうのは笑えない話で、恒例の「直前撃ち込み」だけはしたいと思ってきた。
今日、保育園行事を相方、子供を実家に任せて、能勢に練習に向かった。


ブロック予選の公式練習が、実は試合以外で射撃をした今年度唯一の機会だった。9月も半ばになって、能勢に練習に行くのが今年度初めて、というのは、相当なものである。実は大会前の期間である今日は代表選手用の選手強化部のチケットを使うから、射撃場使用簿の控えはあいかわらず真っ白なのだ。


伏射から練習を始めた。午後は立射、と思っていたが、そうもいかず、午後3時まで伏射だけで終わってしまった。
練習を始めた途端、昨年惨敗した理由がわかった。昨年から、伏射専用セッティングが出来るバットプレートとチークピースを用意したのだが、それまでの立射用を無理して使っていい結果を出していたことに引きずられ、実に中途半端なセッティングになっていた。


悪い原因がわかったから、といって、すぐ「いい結果」が出せる状態になるほど甘くはなく、射撃そのものがなかなか出来ないできている影響が大きくて、四苦八苦して終わったのだけれど、セッティングを慎重に詰め直せたことは、良かったと思う。
次は本番、ということになりそうである。実に心もとない備えで戦うことになるわけだが、久しぶりに射場に戻ってきて、練習をしている、というだけで、めらめらと勝負に対する意欲が湧いてきて、まあ、それだけを支えにひとつやってやるか、という気になった。


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木から


科学との馴染みぐあい、というのはいろいろなかたちがあるのだけれど、多様な生き物そのものについての「物知り」さ加減、というのは、とりわけ自分は欠けているな、とずっと感じてきた。
それぞれの領域の「大家」というのが身近にも次々と現れて、「かなわないな」とまず思ってしまう。
他人との「もの知り加減」の比較などはどうでもいいことで、のめり込めるものがでてくるかどうか、だけのことなのだが、どうもつまらないところで躓いて、劣等感みたいのだけ抱えてきたような次第だ。


樹木ハカセになろう (岩波ジュニア新書)
多少なりとも植物と縁がある分野で研究などしていたので、植物から、と学生時代に図鑑を買ったりもしたのだけれど、今回(またまた反省を込めて)ジュニア新書を手にしてみたら、「ああ、入り口を間違っていたんだな」と、自分の躓きに納得した。
葉っぱしか手がかりがなそうで、違いを見分けにくいのではないかと、避けていたところがあったのだけれど、年間を通じてそこにあり、きちんと違いが見分けれられて、長くひとつの場所を占めるだけに、人間的なエピソードにも事欠かない、「木」こそ、自然と親しむ入り口として最適なのだと、この歳にしてようやくわかった。
学生時代にはなかったいい本が、手頃なところにたくさん出た、ということもこのことにさらに追い風を吹かせている。


(樹木ハカセになろう:石井誠治)


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わかりやすい、ということ

刈谷剛彦氏の「学校って何だろう」も、香坂玲氏の「生物多様性と私たち」もそうであったが、敢えて子供に向けたもの、中学生に向けたもの、を読む。
年少者に語るがゆえに、誤魔化せない、ということを、「教える」という仕事をしていて痛切に感じる。
どうして、今教えている子供たちと同じ年齢の頃、たいしてわかりが良かったわけでもないのに、「わかりやすいもの」を馬鹿にしていたのだろう。
どうしてジュニア新書というだけで、手に取りにくかったのだろう。
こっそりとでも、読めばよかったのに。
政治のしくみがわかる本 (岩波ジュニア新書)


ここに書かれていることが、もし大人たちにきちんと(宗旨はいろいろあったとしても、知識として)共有されていたならば。
どんなに、世の中は違った景色になっているだろうか。


山口二郎:政治のしくみがわかる本)


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格差という言葉が隠すもの

志水宏吉氏の著作で、私が働いている10数年の間に、どんなふうにその仕事の「とらえられ方」が変わっていっていたかを、改めて知る。
何のために、どんな人々のために頑張るか、ということは、「自明」であると思っていた。
制度がうまくかみあわなくても、それが大事なことで、陰になったり陽になったりすることはあっても、なくてはならないことは明らかなことだ、と思っていた。
心ある先輩教員たちが、生徒やその家庭のために、表立たない仕事をしっかりと引き継いでやっていく姿や、それを意気に感じていることを顕すことばに触れて、そう思ってきた。
また、そういうことが命綱であるような家庭や子供は多かった。
格差社会と教育改革 (岩波ブックレット)


格差、ということばは、訳せばinequality、つまり「不平等」である。なぜ「格差」というのか?
生まれてくる環境を選べない子らに、何をもって、機会の平等を保障してやれるのか。
教育に携わる、とは、そこに関わって、少しでも働けることが誇りである。


それを平然と否定することが、「あり」になっていることに愕然とする。
心をこめにくい仕事ばかりが増え、やらねばと思うことが、華氏451度における読書のように、さらに「表立たない」仕事になっていくことは、辛く悲しいことだが、「陽になる」日が再びめぐってくるまで、潰れることなく、しかし絶やさぬように、やっていくばかりである。


苅谷剛彦山口二郎格差社会と教育改革)


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夏祭り

夏祭り


実家の夏祭り。子どもたちが浴衣を着る機会として楽しみにしている。
地元に誰か知り合いがいて…というのではないのだけれど、親や子どもたちと足を運んで、祭りがにぎわっているのを見るだけで、ほっとうれしくなる。

あらためて考える

ダイレクトに話題にされ、看板として弄ばれるきらいもあるようなところに、突然身をおくようになって、自分の仕事の足許についてあらためて考えずにはいられない。


考えなければ気持ち悪い、考えなければ胸が詰まるような感じがする、うまく息ができないように感じる、というのが「−せずにはいられない」ということだと、改めて知る。
学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)
学力を育てる (岩波新書 新赤版 (978))


引っ掛かりを感じられたら、クリックして取り寄せてみて、合間に読む。
(志水宏吉:学力を育てる)
苅谷剛彦:学校って何だろう)


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