本から本へ

本たち



今年の2月3月、わたしのからだは、ほとんど本を受けつけなかった。


通勤で車内にいる時間がわたしの読書時間のほぼすべてで、これは「通勤」ではなく「通学」だったことをのぞけば小学校1年生の時分からほとんどかわらない。
通う先が近くなれば、読む量が減り、遠くなれば増える。
下宿して通学乗車がなくなった大学時代は本があまり読めなくなったので、特急のターミナルからほぼもう一方のターミナルまで乗って出かけるバイト先へわざわざ働きに行った。


転勤で、のんびり単線をターミナルからターミナルまで乗る毎日になった。
職場はさらにそのターミナルから各駅停車を乗り継いで、県境を越えるトンネルの先にある。


本がたくさん読めそうだな、と思った。…が、すぐにはそうならなかった。
何のことはない、しばらくするうちに、相方と一緒に行き帰りするようになったからだ。
一人で乗っていてこそ、ただ本を読む、ということができる。横に人を置いて、ひとり静かに読みふけるのはどうかな、とちょっと気を使ったりしてしまって。
しかし、そのうち、それもあまりおかしいことではなくなった。


それが、徐々に仕事や私事の慌ただしさから余裕を失い、ついには読めなくなってしまった。
疲れ果てて列車に乗り込み、しかし頭はカッカとして眠ることもできず、目を見開きこわばった表情のまま、ただ呆然と窓外を見遣っているうちに駅に着く、という感じだった。
Nintendo DSで「えいごづけ」などをすると、うまい具合に脳をクールダウンできるように感じることに気づいて、帰りの車中はゲーム機に向かったこともあった。
今振り返ると、仕事の状態の尋常でなかったあの時期に、よくまあ結婚式も披露宴も新婚旅行も詰め込んでやってしまえたものだ、と我がことながら感心する。


やがて結婚に伴って相方は転勤し、再び一人でのんびり往復する日々に戻った。
暖かくなっていくにつれて、自然とまた読みたくなった。


疲れて眠りこけてしまう時はもちろんあるのだが、本から本へ飛び回るつかの間の楽しい時間が戻ってきたのが、とてもうれしい。
ささやかに自分を保てている手ごたえがあることは、とてもうれしい。


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