休みのうちにしておけたこと

ほていあおい



妹夫婦の家を訪れることができたし、祖父宅にもあいさつに行けた。
結婚したことを伝える葉書を兼ねた暑中/残暑見舞いも無事発送した。
それにあたって、相方と様々な住所録などのデータを整理したり合わせたりする作業もできた。
銃の所持許可手続きに必要な書類の手配や、一部の手続きも行った。
間接的に、射撃の新しいタイプの練習/試合の立ち上げを手伝えたし、引っ張り込まれた「海外遠征」への視察で、いろいろなことを見たり考えたり、いろいろな人と新しく話をしたりもした。


この週末で、休みも終わり。最終盤になってからも、例えば…。


携帯電話の契約変更(今年度いっぱいでなくなってしまうTUKAは、そのままにしておく訳にいかなくて、気になっていたのだ)。
実家のPCの調整(OSのバージョンが古くなっている上に、データ展開プログラムが壊れていて、アップデートやドライバのインストールが出来なくなっていて、気になっていたのだ)。
母のデジタルカメラ購入につきあうこと(不慣れな人ほど、新しくて使いやすい機械でないといけないのだが、それを買いに行くとなると不慣れな人に電気店はなかなか敷居が高いようで、うーん、と困っているらしい様子が気になっていたのだ)。
長らく無精していた友人への挨拶(半年から1年ぶりに(たかだかメールでだけど)挨拶をすることができた)。


できなかったことをあげつらうこともできる。
「−もできる。」どころか、たくさんある。
むしろ明日から身にしみるのは、そちらの方だろう。


できたことも、もう少しある。
いや、結構ある、と思う。


とっても大げさだけれど、生きる環境を整えるために手や体を動かしたり、自分や家族がこの時代/この場所でアジャストして生きていくための術を考えたり(自分だけでなくって相方や兄妹や親・先輩たちと相談して一緒に考えたり)するのが専ら「休み」といわれる期間だけで、そうじゃないときはそういうことを後回しにせざるを得ない(いや、積極的に後回しにすることが「がんばってる証拠」みたいに誇らしいこととされたりする)…ってのは、「よのなかってそういうもの」だったりするけれど、僕には相変わらずしっくりこない。


「違和感があること」。それがいい意味で(悪い意味で、って言う人が実際には多かったりもするけれど)「若い」ってことかしら、と思う。


…いや、「思うことにしよう」と、ささやかに反抗するような気持ちを持つことに決めたのが、今年の夏休みを終わるにあたって「いろんな『できたこと』をひっくるめたタイトル」みたいに、そっと残しておく「収穫」かしら、と思っている。


[fin]