大学生からの文章表現


大学生からの文章表現 無難で退屈な日本語から卒業する (ちくま新書)
黒田龍之助氏の「大学生からの文章表現」を読んだ。


アマゾンのおすすめか何かで遭遇して、何気なく買ったものだ。脱「小論文」、脱「ツマラナイ文章」を掲げて、学生たちに文章術を教える講義の現場がそのままに本になっている。しばらく読むあてもなく書棚に並んでいたが、何気なく手にとったら、最後までいってしまった。挑発しながら繰り出される黒田先生の課題に、根の真面目な学生たちが悪ノリ一歩手前でどんどん返す「答案」、さらに先生のそれらへのコメント、の三つでテンポよく本は進んでいく。


文章の書き方についての話だから、自分の文章も黒田流に引き比べて省みるが、「思う」を使わない、書いた後しばらく寝かせてから推敲をする、書きまくった後に少ない文字数へ圧縮する手間を掛ける、など、これを書くときに何となく自然とやってきたことに、あらためて「気をつけろ」と促されるようだった。もっとも、実際に黒田先生に見られれば「自己完結」で「ありきたりだ」とそっぽを向かれるかもしれない。書いている趣旨が若干特殊なので、それは構わない。ただ、確かにもっと自由にできるかも、とは感じた。


文章をつらつらと書く習慣は、中学校の時に通年のHR課題にされていた「班ノート」で身についたものだ。これは、クラスで編成した6−7人の班に「交換日記」を書かせて、担任もときどきそこへ顔を出す、というようなものだった。座席もその班単位で座っていたから、人為的なのにずいぶんと濃密な「グループ」だった。何をどう書いたものか、と困りながら、ちょっとした身辺のことを書いたり、クイズの出し合いをしたりと、こわごわスタートしたけれど、あっという間にこのノートはどの班でも盛り上がりをみせるようになる。女の子たちがこういうものをどう書いたらいいか、よく心得ていたのだ。魅力的な文章を面白おかしく書いてくるのに笑わされ、本やテレビから得た豊かな情報を見事に消化していることに瞠目させられた。なるほどと、知らず知らずのうちに彼女たちを真似た。うまくいったりいかなかったり、時には顔から火の出るようなこともあったが、どんな風に受けたり受けなかったりするかを身を持って経験できた。文章はこうやって書くものだと、まさにその女の子たちに「教わった」のである。
今思い起こしても、当時のTさんやMさんの文は見事だった。そういう「才女」だらけの環境が「こういう時期」の「当たり前」だと、刷りこまれるようなところがあって、ここぞというときに「賢い女の子には敵わない」と逃げ腰になったり、どんな「女の子」にも当然のように「そういうこと」ができるものと期待してしまったりする癖が、自分にはあるような気がしている。
(余談ながら、周囲の男の子には「魅力的な馬鹿に徹する」みたいなのが多くなる傾向があって、これには馴染めなかったのだけれど、そういう風潮も原因は同じところにあったような気がしている。)


こんなことをふと思い出させてくれただけでも、この1冊は読んだ値打ちがあったかもしれない。


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