取材を受ける


あっという間に約束の日が来て、今日、日本経済新聞から取材を受けた。
社会部の中のスポーツを担当しているところからの依頼で、「射撃の話を」ということだった。国際大会に出ている、ナショナルチームクラスの選手は大阪にもほかにいないわけでないから、私でいいんでしょうか?という部分はあった。「国体」というスポーツイベントの果たしている役割の大きさをあらためて考えつつ、「勤めをしながら続けて勝つ」ということが自然と帯びてきた価値のようなものをおもしろく思う。


ごく当たり前に「取材されている」人たちには、何ということのないものなのだろうけれど、「上手な聞き手」を前にしても、自分のことがなかなかうまく話せないものである。あれこれ講義なんか引き受けていっぱしに人前でよくしゃべっているはずなのだけれど、それらはみな「射撃をしている仲間うちでのおはなし」でしかないわけで、共有しているものの上に乗っかっているからできていたことだと身に染みる。いざ一般の人に向けて話そうとすると、射撃のおもしろさはどういう部分か、どういうところを競っているのかなど、核心となりそうな部分ほどうまく話せない。仕事のこと、学生などにしている指導のこと、銃刀法の改正や射場の維持など立ちはだかる困難について、日本の射撃界の歴史や構造、大学時代にしていた研究のこと、どうして今の仕事につくことになったか…。あっちにいったりこっちにいったりしながら、2時間にもわたって話を聞いてもらってしまった。記者が(仕事柄、ということはあるのだろうけれど)、おもしろがって次々といろいろなことを尋ね、楽しそうに聞いてくれたおかげで、言うべきことはだいたい言えたような気分になって終わることができた。


ここ数年目覚しい活躍をしている落語家の義兄は、メディアと関わること自体が仕事の一部ということもあって、紙媒体からもたくさんの取材を受けている。掲載された記事を、これまでいつも何気なく読んでいたけれど、限られたスケジュールの中であれは相当上手に応えていたのだろうな、と改めて感心した。「自分」や「自分のしていること」について、バランスよく紹介し、さらにそこへ自分なりの「伝えたいこと」をにじませるには、相当に修練が必要なことだと思い知った気がする。


[fin]