稚魚


土曜日の朝。
体験保育があるから、と娘と相方は保育園へと出かけていった。


ここのところずっと週末は外出続きだった私は、散髪に行く機会を逃し続けていて、相当に鬱陶しい髪の毛になっていた。
今日を逃しては大変だ、と散髪屋へ早々に出かけた。
車は相方が乗っていってしまったので、自転車で行く。


いい天気で、外出日和である。


このところ相方の実家に頼りっきりで、私の実家はなかなか顔を出せずにいたので、散髪の後、足を伸ばして立ち寄ってみた。
長くて割に急な坂道をせっせと漕いで登る。


昨年来、祖父を一人にしておくのが少しずつ難しくなってきていて、父母と叔母が頻繁に祖父宅へ通うようになった。
先日検診を受けたところ、虚血や弁膜症の症状が認められて、一度きちんと検査をしておきましょう、ということになり、現在検査入院をしている。
相方の実家も、祖母が入院してはや1ヶ月が経とうとしており、義母の病院通いがずっと続いている。


一年や一月が、重みのある変化を伴うだけの分量を持った時間であることを、この数年いろいろなところで感じる。
ひとりの生活を基軸にしているときには、ガラスの向こうの景色のようにたくさんのことが過ぎていた。
そんな時期を経たからか、家族の渦の中に戻ってくると、たくさんのものがぐっと迫って見える。


実家にはアカヒレの小さな水槽があるのだけれど、先日の電話で、稚魚らしいのが泳いでいる、と聞いていたので覗いてみた。
大小がかなりあるけれど、10匹くらいだろうか。ちくちくとかわいらしいのが泳いでいる。


一番大きな姪っ子とふたりで、今はもうなくなってしまった熱帯魚店に、この魚たちを買いに行ってもう何年になるだろうか。
姪にとっては、親以外の人とだけで車で出かけるなんて初めて、という頃だったのだけれど、その彼女ももう小学2年生だ。
買ってきた時は、これよりほんのちょっと大きいくらいで、細い針みたいだった。


生長し、やがて老いてゆくほかには、変化を前提にしなかったところで、ふいに思ってもなかった誕生を目の当たりにして、すべてが織り込み済みであるかのように感じてしまう時の流れの閉塞感に、小さな隙間を開けてもらうような心地がした。


[fin]