不可能性の時代


大澤真幸の「不可能性の時代」を少し前に読み終えた。
不可能性の時代 (岩波新書)


「戦後」という時代区分がまだ意味を成していることの、日本の特殊性を説き起こすところから本書はスタートする。
その「戦後」社会の変遷を把握するに有効だった「理想」の時代・「夢」の時代・「虚構」の時代という、見田宗介の区分と分析を基盤にして、1995年の阪神大震災オウム真理教事件を「虚構」の時代の終焉である、と位置づけた著者が、その後の象徴的な事件の多くが、これまでの事件に多かった、「現実『からの』逃避」というベクトルから逆を向いて、「現実『への』逃避」、とも言うべき「破局への衝動」を呈していることを指摘する。


「虚構」までの各時代の分析を、なるほどねー、と読みすすめたが、その後の「不可能性」の時代に切り込む段になってどんどん面白くなった。


「物語る権利」と「真理への執着」という、相反する動きがグローバリズムの中で対立を深めつつ、この両極端にあるはずの多文化主義原理主義が、多文化主義の行き着く先で、世界の終わり・第三者の審級の回復を求める動きとなって、互いに接続してしまう仕組み、
信仰の外部委託として、目の前では排除しつつ、世界の向こう側・遠くにおいてはお互いが存在を必要としてしまっている、隠れた依存関係、
ムーゼルマンという象徴的な、「究極の破局」を前にして起こる、倫理の停止。

部分部分だけでも刺激的で、相手にしている位相もとても広く、気になるところに折り目をつけながら読んでいたら、後半は折り目だらけになってしまった。
ここで初めて会う内容が多くて、翻弄されただけのところが多い。
いろいろちゃんと読んでいかないと、と思わされた。


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