「橋本治と内田樹」/初撃ち


橋本治と内田樹
対談集「橋本治内田樹」を読み終えた。
20年近く、なんだかよくわからないままにも惹きつけられて、細々読んでいる橋本氏と、ブログ・書籍とも、近年興味深くよく読んでいる内田氏の対談。


橋本氏の本は、ずっと手に負えていない。
記述されていることを、自分で再び頭の中に展開できそうな手ごたえがあるかどうかが、「手に負えた/負えない」の実感を決めていると思うのだが、ひとつの本全体を通じてそれを感じ続ける、ということができたためしがない。
箴言集を読んでいる時と同じように、部分部分でなるほどわかったそうだったのか、そういう風に見るのか、と驚き、感じ入るのだが、必ずわからなくなったり、置き去りにされたりするところがある。
私自身の至らない「教養」の問題もあるが、考え続ける「粘り強さ」が不足していることも、よく感じさせられる。


内田氏は明快な人である。
私にとっては、「自分が実は拠りどころにしているのに自覚できていない何か」について、なるほどと形を与えてもらうことの多い人である。


周囲がずんずんある方向に向かっているが、それに肯えない、しかしおかしいと主張する術が自分の中にない、そんな状況が昔から頻繁にある。同じように「おかしい」と主張している人たちもいるが、その人たちの主張内容にはさらに同意できず、一緒に括られたくないと思って、沈黙を守りながら、何だろう何だろう、とぐるぐるしている。
「煮え切らない」とか「宙ぶらりん」という表現で何となく表される、私の中に「よくある状態」だ。


内田氏の記述は、そんな状態にちょっとした穴を開けてくれる。だから、ちょこちょこと手にしたり、見に行ったりする。
一方、橋本氏の著書に延々と付き合ってしまうのは、私とはまた違う(もっと本質に近い)ところでぐるぐるしている先達なのではないか、と気になってしかたがないからである。
具体的には教えてくれない、ただ背中を見て学ぶしかない「師匠」のような感じだろうか。


随所に面白い部分があって、たくさん付箋をつけてしまった。
例えば「期間限定で輝いていた民主主義」の節は、庄司薫氏の「狼なんかこわくない」で、だれも本当のところはよくわからないけれど「民主主義」的なものを大切にしようと、大人たちがおっかなびっくり面倒をいとわず頑張っていた特別な時期として自身の子供時代について書いていたことを思い出した。庄司薫と同い年の養老孟司氏もまた、同じ時期の「敗戦後の学校の変節」について、その後の「世の中」との関わり合い方を決めた原因のひとつとして、幾度か本の中で触れられている。年代的には二氏はこの二方の一回り下くらいになる。
狼なんかこわくない (中公文庫)
抱く印象には、それぞれに異なりながら連続するものがあって、別々に語っていることを合わせることでよくわかる。本書では「戦後教育」みたいに一括りにすることの乱暴さ、を指摘することを経て、様々な師弟論が紡ぎ出されるが、これまでの著作の「補助線」となっていて興味深かった。
また今回の対談では、橋本氏について、内田氏にもわかりにくく映っている部分が幾度も出てきて、そこが私のついていけなくなるポイントと近いために「橋本氏」についての発見もいろいろあった。


今日は、昼過ぎから冬季ランクリスト大会に出て、前回のランクリスト以来銃に触れた。
課題を発見しておきながら、それに対してなんらの練習もできないまま、次がまた試合になったのは痛恨だった。
やむなく練習代わりに、試行錯誤を厭わず、あれこれやってきた。
成績は583と散々だったが、75発限定の中で出せる材料は出してきた。
明日は、はじめに今日の分の「答え合わせ」ができれば、ちゃんと「試合」になりそうである。


「練習」と割り切っても、「試合結果」として形に残ってしまう得点に、気分は沈みがちだったのだが、本のお陰でちょっと元気になった。


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