三四郎


三四郎 (岩波文庫)
漱石三四郎を久しぶりに読んだ。


関川夏央氏の著作が好きで、明治から昭和まで様々な時代の精神や群像について書かれたものを時々読むようになって久しい。
しかし、実際に作品に手を伸ばすことはこのごろ絶えてなかった。
「白樺たちの大正」を読んだ後に、「小僧の神様」を読んだのが最後だろうか。
白樺たちの大正 (文春文庫)小僧の神様―他十篇 (岩波文庫)


先日、姜尚中氏の「悩む力」を読んで「読んだことがあるだけで、ちゃんと読めてない」ことを久しぶりに思い出した。ちょっと気になって、書棚から引っ張ってきたのが「三四郎」だった。
通算では3度目になるだろうか。間に10年くらいずつ(多分もっとだ)挟んでいる。
今回でやっと、作品の全ての文章が「意味」を持って迫ってくるようになった気がする。


よくわかっていない読み方をしているときは、「できごと」と「できごと」の間を「つなぎ」のように感じ、ただ読み進めるだけになっている部分が多い。
小学生の時に初めてこの作品を読んだ時などは、まあ、「漱石の作品を読みおおせる」ことが主たる目的だったから、ほとんどが「つなぎ」で、「頑張って文字を全て読んだ」だけとも言える状態だった。
時代に対する知識が増え、「大学」というところを自ら体験し、何よりも登場人物たちと同じ齢を「経験」し、「人」にもたくさん関わりあったことで、明瞭に読み進められるようになっていた。
「注」を、ありがたく感じるようになったことは、「行為」の変化として自分ながら驚きだった。


覚えていたのは、登場人物の名前と、いくつかの印象的なシーンだけで、まあ、初読のようなものだ。
はじめは少し退屈に感じていたが、「七」で、広田先生が三四郎とふたりで語る場面から、急に面白くなって、そこからは一気に読んでしまった。
与次郎のような人間の動きにあまり驚かなくなったばかりか、なんだかよくわかるようになったこと、広田先生や野々宮、原口などの登場人物にも、人物像がすぐ親しみを持って自分の中で立ち上がるようになったことが、大昔読んだ時と全く違うのだろう。


三四郎には、同じくらいの年回りのころの自分と相似を認めて、歯がゆく思う一方、因循だが地に足のついた田舎の現実と、目の前にちらちらする華やかな仮想現実、立派らしいが滑稽な遊民の集まりである大学の世界、という3つの間を、それぞれに後ろ髪引かれてふらふらする様子を懐かしく眺め、そうなることの必定を百年を隔てても親しく感じた。美彌子には、小説世界では「新し」さや、時代との「葛藤」を取りざたされるものの、時代ごと社会に過剰に適応せざるをえない男の滑稽を尻目に、今にも通じる女性の感性や振る舞いの不変を表しているように思った。
あれこれ「新しい女」として美彌子を取り上げた時代時代の「男」の評者たちは、彼ら自身の属した時代の社会に、それぞれいかに囚われているか、をその評によって明らかにしてきたのではなかろうか。


日常に現れてきつつあった「変わり目」を、そのもっとも生き生きと表れてきた場面で切り取って見せ、その変化の行く末を漠然と予感する。
そんなテーマや思惑を抜きにしても、楽しみながら読み進めるうち、はっとさせられる言葉に出会い、読むことを堪能できた。


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