四畳半神話体系と薫クンの記憶


四畳半神話大系 (角川文庫)
文庫化を機に、森美登美彦の「四畳半神話体系」を読んだ。
太陽の塔」後、約1年を経て出た、(難産を窺わせる)3年前のメジャー2作目である。


パラレルに展開する4つの「四畳半世界(?)」の物語が、区切りになるイベントを共通にしながらお互いにエピソードを補い、くっきりと立体的な世界を形作っていく。
手の込んだ佳作だった。
ひとつの全く同じ空間や時間を、少しずつ角度を変えて繰り返し見るのはそれだけでとても面白いもので、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」が独特の魅力があるのも(もちろんマイケルたち役者たちやストーリー、道具立ての魅力があってのことだけれど)この面白さが底にあるからじゃないか、と思ったりする。江國・辻両氏の「冷静と情熱のあいだ」なんかもきっとそうだ。
冷静と情熱のあいだ―Blu (角川文庫)
冷静と情熱のあいだ Rosso (角川文庫)
バック・トゥ・ザ・フューチャー [DVD]
太陽の塔」の時のように声を出して笑ってしまう、というのとはまた違ったが、さらさらと面白く読んだ。



評判を勝ち取った次の「第2作」というのは、一般的に技巧的なものになるものなのかも知れない。
・・・などと、ちょっとわかったようなことを考えていたら、ほとんど忘れかけていた福田章二氏の「喪失」という作品集を思い出した。
氏が中央公論新人賞を取って、デビュー以前の作品と第2作を合わせて単行本にした本である。
2作目にあたる「封印は花やかに」という作品が、二人の異なる視点から書かれる章が交互に並べられ、張り詰めた空気が緩むことのない、人工的・技巧的な印象の(なんというか、くたくたに疲れてしまうような感じの)作品だった。読む側の印象は「四畳半神話体系」とは似つかないが、書く側はいずれも似たような緊張感であったのだろう。

喪失 (中公文庫)

喪失 (中公文庫)


「2作目」・「技巧的」ということばで生じた連想ついでに福田章二/庄司薫氏の作品を久しぶりに思い出す。


「赤頭巾ちゃん気をつけて」にはじまる薫クン4部作は、私の年代が小説などを読むようになる頃には、評判になった時期から相当に時間が過ぎていて(私が生まれるより前のことであるから)、自分の周囲ではあまり親しまれていなかった作品だが、ふとしたきっかけで主人公と同年代(つまり高校生活の後半だ)の時に読んだ。
いかに素直さを損なわずに周囲と折り合っていくか、いかに嫌ったらしくならず、しかし媚び諂うことなく自分にとって大切と思う「高み」を目指していくか、というような、「世の中」とのスタンスの取り方を教えてもらったようで、私にとっては、ちょっと特別な作品である。
(福田氏に相当に噛み砕いてもらって、ようやっとその内容に取り付いて楽しんだ、ということが少し恥ずかしいけれど)。
ぼくの大好きな青髭 (中公文庫)
白鳥の歌なんか聞こえない (中公文庫)
さよなら快傑黒頭巾 (中公文庫)
赤頭巾ちゃん気をつけて (中公文庫)


優秀で自意識過剰な曲者高校生たちとうまく距離を取る、快活で饒舌な薫クンの作者は、「優秀で自意識過剰な曲者高校生」側にいた人だったらしいと知り、遡って福田章二名義の作品に手を伸ばし、読んだのが「喪失」だった。
「若さ」というより「男の子」の(元来)へんてこりんで複雑な内面を「普通に」書くとこうなる(つまり難解になる)。
ということは、文学の「難解」というものは、かなりの部分がその披瀝の仕方にあるんじゃないか、というようなこと(そこまで当時はすっきりとは考えられなかったけれど)を思ったりした。海外の翻訳ものに苦戦していた当時の自分にとっては、ちょっとした「言い訳」が見つかったような気がした。


また、難解にしたりそれらしく格好つけたって、結局は男の若さって本質的にみっともないものなんだな、という開き直りの根拠のようなものも得た。
「薫クン」が頑張っていたのは、そんな内に秘めているものをただ捨て去ることで解決するのでなく、しかし秘めているもの自体の世界で完結してしまわないようにするにはどうしたらいいか、ということだった。それは単なる「誤魔化し」とは違って、それこそが何というか相当に「知性」や「センス」を総動員する、「人となり」そのものを表すような「男子の一大事業」らしい、と知ったのだった。


重心の置き方が卑近な方に大幅にシフトしているけれど、森美くんの作中人物もある意味で男の子如何に生きるべきかをちょっと過剰に考えていて、自意識過剰で饒舌だ。巧まれた「饒舌」は、背景にあるものの比較は抜きにして、「男子の一大事業」にせっせと取り組む点で相通じている、と見る。


森美クンと「薫クン」をただこうして並べると、東大だ京大だとそんな連想が先立つだろうなというのがちょっと・・・だが、そういうのを抜きにして、いわゆる思い付きや情念みたいなものを何でも「ストレート」に文字にすればいい、というようなネット上にあふれている散文の傾向や、それをそのままに集めたような出版物の山を前に、「若さ」や「男の子の困難」を題材にして、するべき悪戦苦闘を(快活に)やっている、という点が何となく互いを連想させ、そういうのに好感を感じているんだな、と思った。


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