小林秀雄の恵み


小林秀雄の恵み
橋本治の「小林秀雄の恵み」読了。ただ翻弄されるだけで終わってしまうことも少なくないのだが、大学生のころから氏の著作は気になってつい購入してしまい、長い時間積んだ後で読む。
私の前に小林秀雄が現れるのは、茂木健一郎の著書「脳と仮想」の冒頭と引き続く。両者は新潮社の「小林秀雄賞」つながりであるから、まあそれほど驚くことではないのだが、なぜという思いはある。


私にとって小林秀雄は、「通らなければならない教養の扉のひとつとして存在しているが、あまり読まれていないし、ありがたがっている人もよくわかっていないのではないか、と思われる著述家」といったイメージであった。
高校生時代に抱いたイメージである。
今では「教養の扉」的な感じ方自体が消えつつあって、同業者でも知らない人は本当に知らなかったりして驚いたりもする。まあ、よくわからないでありがたがるのとどちらがましか、と真顔で言われても困るのだけれど。


高校生のための批評入門
新装版 考えるヒント (2) (文春文庫)
高校で薦められたちくまの「批評入門」というアンソロジー小林秀雄は(まあ当然)載っていて、その文章が気になったために本屋で文庫本を1冊だけ買って読んだ。その時は品揃えが悪くて、棚にわずかにあった数冊の中から「考えるヒント2」を選んだ(1がなかったからだ)。
薄い1冊がなかなか読み進められなかったが、その中の「伊藤仁斎」について書かれた一編はとても印象に残った。


私は当時、漠然と生物に関わりのある理科系に進むことを希望していた。新しい知見を得るには、実験や探検などの行為を伴うのが一般的である、とどこかで思い込んでいる節があった。そんな高校生にとっては「一書の理解に読書何万遍を要す」ということが衝撃だった。
「そういう風にしなければ拓かれない知見」というものがあって、それが「男子の一生を捧げるに値するもの」として昔から営々と受け継がれていることに打ちひしがれた。
「学者」というものがいて学問を専らにしていた、ということは知識として知っていたけれど、その実相を実感したのがその一編だった。


論理的な説明によるのではないが、わかる人には完全に共有される「わかりかた」、というものが存在することを、祖父が長年続けている俳句や写真をめぐって感じていた。通りのいい言葉で言うとすると「センス」あたりと近いのだが、もっと確固とした感じ。
「文献学」とも違う、「繰り返し読んで『自分のものに』したときにはじめて『わかる』というわかりかた」は、きっと同じものをさしている、そしてそれは(小林秀雄なんかが言うくらいだから)なんというか論理的な説明とちょっと違うけれど、「学問」的に(?)確固として存在が認められているのだ、と知った衝撃、とでも言えようか。


今回の1冊は、滑り出しから興味深い話が次々と現れるが、果たしてそれがどう本筋とつながっていくのかわからず、戸惑いながら読み進めた。「小林秀雄」が筆者にとっておじいちゃんのような存在なのだ、という部分から、ああそういうことか!と本筋が浮かび上がってくる。
「『あはれ』がわかる」ということを巡る、「わかっている者」と「わかっていない者」、「わかっていないことをわかっていない者」の関係を読み解くことで、本居宣長小林秀雄本居宣長の弟子や師匠、そして本居宣長が研究した古典と、著者橋本治、そして小林秀雄の著書を読み解いてゆく。


高校時代の読書の残滓とも言える「伊藤仁斎」の記憶や印象とそれなりに符合して、さらにその世界は広がった。
人は読み取りたいものを読み取る。
書かれたものにたいして従属であるかに見える「読む」という行為が、そんな生易しいものではなく、良くも悪くも読者によって創られる行為としての側面があって、それは「誤読」と片付けられるようなものだけではないし、それによって力を得て価値が作り出されていくことがあるのだ。


そんな風に私は読んだ。


[fin]