多田女史


自分を生かす古武術の心得 (集英社新書 429H)
多田容子「自分を生かす古武術の心得」を読んだ。
柳生新陰流の武術を学びながら時代小説を書いている女性、として甲野善紀氏のHPなどでその名を知っていたが、今回新書を読んで初めて、多田さんが私と同い年で大学まで一緒だったとわかり、あららキャンパスですれ違っていたのか、と驚いた。


多田さんは、大学時代にすでに時代小説を書くことを志し、居合道を端緒にして武術への関心を深めていたという。
私にとって大学時代は、まさに射撃と出会い、模索を始めた時期であるが、将来武術で育くまれた技術に興味を向けることになるとは思いもしなかった。


本書では、甲野善紀氏を縁に知り合った辻本氏から、「手裏剣術」を学ぶことを通じて、自分の体の使い方についての気づきを深める様子や、その気づきの内容、師弟関係や、教えることや教わることについての考察が描かれている。
体の動きについての説明は、古武術系の動きの側面をとらえながらも、身近でわかりやすい。どんな言葉がけが人をのびのびと動かすか、どんな時に「上手く」なるか、また反対にいくら頑張ってもよくならないときの状態はどんなことになっているのか、といった人と人の関係のあり方がもたらす心の状態についても、あらためてそうだなと思わされることが、平明に書かれていて、納得することが多かった。


立て続けに合宿で指導しなければならない日々を控えており、そのことに重圧を感じている折であったため、多田女史が「教えてみる」側に立ったときの「戸惑い」と「収穫」を書いた部分は、励まされるような心地がした。「自分の芸の落ち着き先を探さず、自ら工夫することと教えることを循環して、身体感覚を共有できることを喜ぶ」姿勢で臨めばよいのだ、というくだりは、心を落ち着けてくれるものだった。
多田さんの言うように、体を操ることで何かをなそうという、スポーツは、素直な目で見ること、感じ取ることを大切にする営みである。普段の生活の中で、そのことが素直に行える場面は多くない。そんな営みに、目指すものを共有して共に過ごせることを喜びに感じられればうまくいくような気がする。
教える側が積極的に「変わりゆく」ことは「当然」であり、むしろそうでなければおかしい、という指摘は、甲野善紀氏の著作を読み始めた当初に「はっ」と思わされたことだった。教える側に立つときに「前に言っていたことと違う」ということを過剰に意識して、無難な内容しか伝えられないでいることを「はっきり」と「おかしい」と思えたことは、当時、技術の指導において重い枷がはずれる思いだった。


武術の創造力―技と術理から道具まで
以前買ったまま積んであった多田・甲野善紀共著の「武術の創造力」も読んでみた。


こちらは、はじめ甲野氏の著作中で幾度となく繰り返されたエピソードが多い。しかし徐々に日本刀をめぐる技術や歴史が主な話題になってゆく。
鍛造の技術、研ぎや手入れ、名刀と剣士・刀鍛冶の様々なエピソード・・・日本刀を巡る様々な知識は、今となってはすっかり抜け落ちてしまったがかつては共有されていた、日本ならではの文化であったのだろうと思わされる。
「鍛接」という刀を作る上で立ちはだかる「矛盾」を刀鍛冶が乗り越える技術から、刀を使うからだの動きについて示唆を得る、といったあたりの話は、工学的な面からも、そこから得られるインスピレーションの面でも大変面白かった。


本書は対談の形式を取っているのだが、あるテーマに深入りしそうになると、あわてて中断して、語り残したままに次へ次へと話題を変えてゆく、という展開が多い。それ自体が羅列されてもとっつきにくい大量の失われた情報を「気軽に読める」ようにするには、対談形式やこのような展開が最善であるのかもしれない。
しかし、思わぬ議論の深まりや、逸脱によって出る心のうちや新情報、といった対談ならではの醍醐味は少なめで、やりとりがつぎはぎされたようなところが多く、こちらは残念ながら散漫な印象に感じた。


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