問題は躁なんです


問題は、躁なんです 正常と異常のあいだ (光文社新書)
春日武彦の「問題は、躁なんです」を読んだ。


「うつ」については、広く知られるようになった。
世間で定着した感のある「心の風邪」という表現はうまく病徴を言い表しているし、また「うつ」の状態というのはだれもが多かれ少なかれ経験ししており、そこから敷衍される想像や理解に大きな誤りは少ない、と本書でも触れられている。
その一方で、「躁」は(やはり)どうにも説明が難しいらしく、著者は、あえて例えれば「心の脱臼」という表現でどうだろうか、と提案している。


時々の情況に際して自分の心の中に生じる「まずいな」と感じる部分はいろいろとあるのだけれど、誰もが持っている「躁」や「うつ」の傾向は、それらの説明や対処に便利である。精神科医の著書を折に触れて手にするのは、道具としてそういう知識をあてにしているから、という部分が多分にある。
ところが、「うつ」の対になるものとして「躁」に漠然としたイメージはあるものの、その知識はどうも頼りない。「うつ」的なもの、としてかたづけられるものに少し対処できるようになってくる一方で、その反対側にも対処しなければならない心の状態があって、それは果たして「躁」なのかが、あいまいな疑問として漂っていた。
ふと本書が目に入ったのは、そんな理由からである。


「沈んで、気力を振り絞らないと物事に取り組めない状態」から、うまく浮揚させて「調子よく、次々と効率よく積まれた仕事をこなしていける状態」を導き出すと、その後に「ちょっと勢いあまったような感じ」が訪れることが多い。私は自覚的にこの余勢は駆っておいて、普段できないことに手を伸ばしておくようにしている。
ただ、何にでも無自覚に使うと失敗のもとになる。家事的なことだと勢いに任せても問題はないが、作文なんかをすると、やたら攻撃的な調子で、えらそうな物言いになっていたりする。後で読み返したときにびっくりするが、あらかじめそうなることがわかっているから、すぐには使わず、少し醒めて文言を修正してから使うようにする。
この勢いがないと、文章を作る、ということ自体がなかなかできないことが多いので、ありがたいのだが、ちょっと病的だとも思う。


書きものなら「すぐ使わない」という対処法でなんとかなるからいいが、議論の場面でもめぐり合わせでそうなっていることがあるように思う。熱くなる場面やタイミングがおかしいなあ、という人は自分の周りにもままいて、そんな場面では人のふり見て我がふり直せだと省みる。


本書では、「不可解」とされる多くの事件の背後に「躁」が隠れている可能性が高いことが、数々の実例やエピソードを交えながら指摘される。
躁の解説に当てられた章では、おおよそ深みのない皮相な行動原理があらわになる、直面するといたたまれないであろう症例に、ああ、と思い当たることがいくつかあって一気に読めてしまった。


著者いわく、自分は一応専門家であるから、今後年齢的に自分に降りかかりそうな精神疾患には、大抵ある程度の対処ができそうに思うが、「躁」だけはダメかもしれない、そうなっちゃったときの自分の状態についてこうして先回りして言い訳しておくのだ、とある。
・・・そうなのか・・・。
調子のよさに勢いあまった状態で、言い過ぎたりやりすぎたりした後にやってくる「後ろめたい感じ」がよみがえってきて、少し落ち着かない気持ちで本を閉じた。


[fin]