トランキライザーとしての読書


なかなか本が読めずに1・2月は過ぎた。
一人暮らしに戻っていることも影響しているが、入力と出力のバランスもよくなくて、感情的に「とんがり気味」だ。
久しぶりに仕事で声を荒げたりなんかする場面もあって、どことなく常に心休まらず、イライラかっかとしているような具合だ。
「ちょっと冷やさなければ」と、書店で本を手にした。


ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶 (新潮文庫)
大崎善生「ドイツイエロー、もしくはある広場の記憶」。
ここ数年、私の中では「困ったときの大崎善生」という感じになっている。この間の「ロックンロール」はがっくり来たが、女性を主人公に据えた4編の短編からなるこの作品は、まずまずよかった。
以前にうならされた「九月の四分の一」の流れを汲んだ短編集である。


1篇目のキャトルセプタンブルがいい。
事実だけを拾い出せば、そんな迂遠なできごとが、沈んでしまった心をふたたび上向かせてくれるものだろうか、といぶかしんでしまうかすかなつながりを、主人公と一緒に辿るうちに、それがたしかな心の支えに変わって知らず知らず前向きな心持ちへと動かされてゆく。


現実と自分が解離した状態、というのも苦痛が伴うが、すべてに生々しく反応してしまう距離の詰まった状態もまた、行き過ぎた言動を呼び、苦痛である。現実と自分の間に緩衝材のように、自在な膜のような距離を保てるのが一番いい。詰まり過ぎた距離をうまく解きほぐす方法として、私の場合は読書が最も確実で有効な感じがする。


バカにならない読書術 (朝日新書 72)
小説が途中で途切れるのが嫌で、通勤のスタートに「ドイツイエロー・・・」の1編を読み始め、それが終わったら新書に持ち替える、ということをしながら読んでいた。その時セットにしていたのが養老孟司・吉岡忍・池田清彦「バカにならない読書術」。


さっき書いたようなことを思いながら読んでいたら、
…世間と微妙に距離をとる、ということが重要で難しい、「本の中に書かれていることは必ず現実とずれている。それは「距離」なのです。この時代にこんなことを考えてるやつがいるんだよな、ということで頭を冷やす」ことができるのだ、
…とあった。
他の箇所の「書店に行くと、精神科の待合室のようだ、そこでは「何か言いたい」と並んでいて、どれにもこちらが読み取れる何かがある」という「ならでは」の実感と合わせると、なるほどなあと思う。


漫画と漢字のアナロジーは氏の他の著書で幾度もお目にかかってきたが、欧米なら読字障害となりうる状態であっても、日本語特有の「いろいろな読め方」が迂回を可能にし、日本の読字障害を少ないものにしている、という切り口は面白い。今まさに文字の苦手な子と、手変え品変え一緒にチャレンジしているときに感じたこととも結びつく。
「本は『ながら』でしか読めない」なんていう、小学生以来の自分の読書スタイルに上手く理由付けしてくれる箇所もあって、前半の養老さんのパートだけで、かなり楽しめた。


本書を手に取ったのは、書物について鼎談する3人の取り合わせが面白そうだな、と思ったからだがこれも期待を裏切らなかった。
テーマに沿って話すうちに、気がつくと言及された書物が推薦されている、といった感じなのだが、「読んでみたい」と思わせる本がたくさん出てきた。
今の「気分」なのかもしれないが、「旅行記」をテーマにした部分が面白くて、渡辺京二「逝きし世の面影」はじめ、ここで出てきた本のいくつかは特に読んでみたいな、と思った。


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