オリンピア


沢木耕太郎オリンピア ナチスの森で」を読む。
近代スポーツ草創期のひとつのピーク「ベルリンオリンピック」をめぐる群像が描かれている。オリンピア ナチスの森で (集英社文庫)


レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」と「美の祭典」、そしてナチスの影…知識としては知っていた。「前畑ガンバレ」や「暁の超特急」にもそれなりの印象をすでに持っていた。特に前畑秀子さんの、ロサンゼルスオリンピック後の苦しい4年間を経て、ベルリン五輪において一身に背負った日本中の期待に応えるに至る快挙についてのドキュメンタリー映像は(NHKの「そのとき歴史が動いた」だったろうか)息を呑んで見つめた記憶がまだ新しい。
しかし、ベルリンオリンピック全体が持つ「事件」性や、その他のたくさんの選手の方々の快挙や苦闘については改めて知ることばかりだった。


スポーツ自体の意義や価値について、様々な受け止め方があり、理解や支援を一身に集めた選手もいれば、学業や仕事との兼ね合いに工夫を凝らして活躍する選手もいる。時間の流れは全般に今よりゆったりしているが、時々によっては今よりも激しく流れるひと時もあり、その中でもがく姿は、今と変わらないと感じる部分が多く、少し驚く。


跳躍の田島選手の活躍には心躍り、陸上長距離の村社選手の姿や、水泳の清川主将の姿には、強く励まされるものを感じた。


今、中東クウェートでは、射撃の日本チームが北京の出場権を賭けて最後の戦いを繰り広げている。
なんとか今日までのところで2つのQPを獲得したようだ。後輩M君の勝負をかけた出番も間近い。


フィルムを待ち受けたり、国際電話をかけたり、報道されるかされないかわからない紙面の片隅に目を凝らしたり、ラジオに耳を澄ましたりせずとも、クリックひとつでほぼリアルタイムに成績を受け取ることができる。そういった技術面の飛躍的な向上で、ある種の熱さは影を潜めた。
沢木さんは、アテネで近代オリンピックはひとつの円環を閉じ、大会全体として何かの意味を持つ、という時代はもう終わってしまったのではないか、と書く。
その言わんとするところ、私も頷くところがある。
個々の選手が抱く、大会への思いは様々にしかしその様々さは変わりないように見えて、大会の全体としては、さらには世界の営みの流れ全体との関係においては、どんどんと変化してゆく。膨らみ行きつつ、その密度は薄まっていく、そのような印象の世界にあって、オリンピックに代表されるスポーツの、普遍であるかに見えて実は普遍でない、しかし普遍でないようであってもやはり普遍である、というような、切り口によって様々に姿を変えるその魅力に、わたしはまだ、しばらく寄り添ってゆくであろう。


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