私家版・ユダヤ文化論


内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」を読み終える。私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)


ー 因果応報図式に基づく「善」は、ただ懲罰への恐怖からなされる「幼児の善」でしかない。


また、


ー 善行が報われず、罪なき人が苦しむのを見てただちに「神なき世界」を結論したり、人間が善悪の判定者であるような世界(神は善行をしたものに報償を与え、過ちを犯したものを罰し、あるいは赦す、という)を思考する者は、神が人間によって操縦可能である、と考えているに等しい。


といった内容に「確かになあ…」と頷く。


ユダヤ文化は、これら2つの考え方に基づく「神は全知全能の存在として世界の隅々までを統御し、人間を世界のありように何の責任もない幼児として留める」という世界観を退ける。
そして神は、「独力で善を行い、神の支援抜きで世界に正義をもたらしうるような人間」を創造されたが故に(それを証す意味でも)受難において、姿を現すことはない、と考える。
全能の神は「不在」であることによって「遍在」していることを証明する、というのだ。


ユダヤ世界において神は
「救いのために顕現せず、すべてを責任を一身に引き受けるような全き成熟を人間に求める神」=「遠い神」
として、
「人間の邪悪さを免責する、勧善懲悪の全能神」=「一般的(?)な神」
と隔絶して聳え立っている。


ユダヤ民族は、「人間性」・「善性」を志向する根拠を徹底的に追求した果てに、「始源における決定的な遅れ」を感じ取る、特有の時間感覚(アナクロニズム)で主体・神・時間の三概念を立ち上げてしまった。
このような神を戴いたことから、民族的規模で「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」を開発してゆく。
通過儀礼」として身につけることが課されたこの「感受性」が、「知性的」であることや「進取的」な振舞いを、普遍的に育てる源となっていった。


ユダヤ民族は、その共有しがたいが無視しがたい「世界観」と「文化」を、無意識的に激しく欲望されることによって、迫害を受けてきたのであろう、という。


…そのように読んだ。
ただ「よその文化」を紹介された、というのとは全く違う、非常に刺激を受ける読書であった。


[fin]