ピンポンさん


ピンポンさん (Journal labo)梅田曽根崎の旭屋書店にふと立ち寄ると、入って少し奥、スポーツノンフィクションのコーナーだったのだろうか、平積みになっているでもなく、目線の少し上の棚にこの本は並んでいた。
ああ、あのピンポン外交を繰り広げた偉大なスポーツ指導者の本だな、と手にとった。



62歳で病に倒れ、本当に惜しまれて亡くなられた時のことはよく記憶している。日本人離れした不世出の人、として荻村伊智朗の名を知ってはいても、私はそれ以上くわしくは何も知らなかった。
パラパラと初めのページをめくってみると、静かに澄んだ文章に惹きつけられ、すぐに買うことに決めた。


独り技術を探究し、必然的に猛練習に打ち込んでいく荻村青年。世間の一定の評価とはかけ離れた目標、理想を密かに胸に秘め、周囲の人々にもどかしさを感じつつ徐々に登り詰めてゆく様は、私を15年前に引き戻し、今を様々に考え直させた。


偉大すぎる先人を引き合いにするのはとても恐縮なことだが、大学時代の私の射撃と重なった。


…頑張ってうまくなって、それでどうするの?
…大学から始めて、弱いチームの中でちょっと目立ってうまいったって、たかが知れてるだろ?


しかし私は最終的には全ての選手に間違いなく勝てる、と信じていた。それが来年か、大学を卒業するまでなのか、10年後なのか、もっと先なのか、何もわからなかったが、私だけは周りの全ての選手と違っている、私は「後退しない射手」だ、今はたとえ上をいく者がいようとも、どうしていつまでもそれらに勝てないでいようか、そう心の中で叫んでいた。


今も、そう思えばこそ射撃を続けずにはいられない。
しかし、寸暇を惜しみすべてを捧げるにはほど遠い。荻村さんが悪い意味で語ったように「少ない練習に慣れて」いるばかりだ。


つかの間訪れた「クラブチームの時代」ともいえる、社会人が仕事の後、卓球場に集まって、深夜まで腕を磨く光景が、まぶしかった。
私の所属している2つのクラブチームの黄金時代も、まさにこのようであったと聞いている。さらにその未来を荻村さんは心に描いていたが、我がクラブは残念ながらいま見る影もない。
激しい人生であった荻村さんの一生を伝えながらも、優しいトーンが本書を貫いているのは、まさに荻村さんの卓球と、荻村さん自身を包み育てた、武蔵野卓球場・吉祥クラブ・青卓会という場と、上原久枝さんの存在があるからなのだが、同じような場を頼りに強くなった私は、その大切さがよくわかる。これからも、なんとかこういった人々のつながりが核になって、強く世界に羽ばたいてゆく人や技術が生まれていって欲しいと思う。


荻村さんの後半生も、自分にとって全く遠い世界の話、とも言えない。


あまりに鮮やかな、そして学ぶことの多い先人が、こんなに身近な時代にわが国にいたことを本当にうれしく思い、わずかでもそれに続き、受け継ぐことになるように、と奮い立たされた1冊であった。


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