「カラマーゾフの兄弟」読了


カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟を昨晩読み終わった。読み始めてから7週間が過ぎている。


中学、高校時代、主に海外の古典ばかり「頑張って」読んでいた時期があった。読んでおかなくては、ひとかどの人間になれないことになっている、と思っていたためだ。


何かを為したことで、私の知るところとなった人々は、どうしてそのようなことを為そうと思ったのか、どうして為せたのか?
エピソードをたどれば、「若かりし頃に読んだ書物」というのが必ず登場した。そういう「人々」と「書物」をダイレクトにつないで一つにしたような、「わたしの3冊」といった、著名人による岩波文庫の紹介記事などを一心に読んで、作家や作品の断片的な印象は、早いうちからかなり私の中でふくらんでいた。


中学生の時だったか、国語の授業で「わが未読の必読書」を書きなさい、という時間があった。後日、挙げられた全書物のリストがプリントにされ、1冊1冊、
「もうこの本を読んだ、という人は?」
と挙手させられた。


必読書を挙げることも、人が挙げたリストを見るのも、自分が挙手することにも、人が手を挙げるのを見るのにさえ、やたら恥ずかしく感じたことを思い出すが、自分が何を「必読書」に挙げたかは記憶にない。プリントにはたしか、桑原武夫の「わが必読書」が一緒に印刷されていて、外国の古典の名前ががたくさんあった。さほど文学少年とも思っていなかったちょっと生意気な感じのクラスメートが、そのほとんどをすでに読んでいる、ということに驚いたことはよく覚えている。


私は「自分にとって面白いもの」を探すのが下手だったし、またそれをどうにかしようという、気構えみたいなものも薄かった(どことなく熱中の度合いの薄い質は、この頃のままだ)。ただ「ひとかどの人物」への憧れだけはあって、だらだらと外国の古典、それも薄い文庫本ばかりを選ぶようにして読んでいた。


大作にもたびたび手をのばしたが、デュマやモーム、一部のディケンズあたりを除けば、引き込まれるように熱中した記憶はあまりなく、車中で淡々と読み進めていた。
期せずして吸収したことは少なくなかった、と思いたいが、当時の実態は、あるときは登場人物にイライラし、あるときは時代の違いからくる冗長さや、共感しにくい描写に退屈し、「ありがたさ」で何とか耐えてページを進めるということが多かったような気がする。


世界文学を読みほどく (新潮選書)
今回、カラマーゾフを手に取ったのは、光文社の古典新訳文庫、そのなかでも亀山郁夫のこの新訳が話題になっていて気になっていたこともあるが、直接には池澤夏樹の「世界文学を読みほどく」がおもしろくて、私の中に再び「世界文学」熱が沸き起こったためだ。


京大文学部で行われた特別連続講義をまとめた本なのだが、書物の名前・作家名・時代・地域・あらすじプラスアルファ・・・といった平面的な知識で整理されていた文学作品たちに、「今の自分」・「今の時代」との関係づけで「立体的な位置」が与えられたようで、なかなかにエキサイティングだった。ああ、こりゃ読まなくていい大作も多いんだな、読むのが退屈なのもあるわけだ、と納得し安心する一方で、読んでみたい「未読の」大作も現れた。その筆頭が「カラマーゾフ」だった。


すっかり長文になってしまったので、肝心の内容については、また機会があれば書くことにする。振り返ってみて、背景の知識が不足しているためにわかりにくく読み進めにくかった部分・問題意識を登場人物と共有しにくくて苦しんだ部分・重層的に解釈やイメージが湧き出してくる仕掛けとしての「謎」・・・がある一方、ジェットコースターのように読み進めた部分も多かった。また、自分の中にない、巨大なもの・不条理なものを、ただ反射的に嫌悪してしまっている自分に、ふと気がつくこともたびたびあった。「わかる・わからない」というのよりもう少し原始的なレベルで、作品にところどころ「力負け」している感じ。


再読を繰り返す人が少なくない、というのはわかる気がした。


[fin]