潮流


「スポガジ」(http://gajiroe.exblog.jp/m2006-09-01/#3388934)を読んでいたら、今日のエントリーは「ブログやSNSによって一般の人々がニュースに対してコメントを発信する、という場が増えたが、そのことによって言論が豊かになったかというと、一つの流れに付和雷同して威張りちらす悪しき自警団のようなものが横行することになり、逆に少数意見が抑圧される『イナカ化』が進んでしまった」というものだった。


「イナカ」とは、地理的な意味でなく「自分で価値観をつくる力の有無」という軸で世間をみたときに「すでにある価値観に乗っかること」が支配的な世間のことを指しており、これは「よくわかる」と感じた。


ブログが登場したときに「すでに犯した2度の失敗(Web・BBS)を経て、これこそはきちんと市民の側が握る、力のある言論空間となるように市民が育てていかねばならない」と「メディアを育てることの重要性」を訴えていた「世に倦む日々」を思い起こした。ちなみに「世に倦む日々」ではすでに、「ブログが3度目の失敗に終わりつつある」ことを深く嘆いている(http://critic3.exblog.jp/5661728#5661728_1)。


時代の先を見通して、心から憂え、行動を起こす人々は、いつも浅はかな後乗りの群衆に嘆かされ続ける。
しかし、「イナカ化」と嘆く以前どこかに「自分で価値観をつくる力」が広範に存在する世間、なんてものがあったか?というとこれは疑問で、ブログやSNSが単に、もともと圧倒的に多数派だった「すでにある価値観に乗っかる」人たちに、「これでいい」と自己確認させる役割を果たしたために、そういう空気が顕在化したのだろうと思う。


説明をつけたところで、事態の深刻さに変わりはない。私は危機感は「スポガジ」や「世に倦む日々」と共有するものの、行動としては現していない。一般に行動として現すことが珍しい時代には、「物言わぬ良心」といったものが信じられていたが、「発信」などの行動が一般的になってきて、その内容が「付和雷同」・「集団による個人攻撃」のようなものが主流、となってくると、そういうものが信じられなくなってきてしまうのかな、と不安になる。


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