世に発する言葉


九州を熱帯性低気圧に変わる寸前の台風がゆっくりと北上し、雨がかなり降ったというが、ここ近畿では、たぶん降るだろうと朝持って出た傘はそのまま差さずに持って帰ってくることになった。夜も更けて、今頃雨音がしている。週末は雨らしい。


仕事の合間に、RSSリーダに登録しているブログを見て回った。
自分が引っかかりを覚えている事象について同じように引っかかり、思索をこらした文章に出会うことが、「仕事」以外でPCに向き合う楽しみである。


今日は主に先の終戦記念日の「靖国を巡る違和感」について読み漁ることになった。


大前研一氏のhttp://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/a/42/index.html
世に倦む日日http://critic3.exblog.jp/5492660#5492660_1
スポガジhttp://gajiroe.exblog.jp/3080206/
mikawanookina氏のhttp://d.hatena.ne.jp/mikawanookina/20060817 など…。


内田樹の研究室http://blog.tatsuru.com/archives/001879.php にある、


ナショナリストであることはそうでないことよりも政治的問題について考えるときの知的負荷が少ない/『ナショナリストのようにふるまうこと』はしばしば高度の知的緊張を要求する。だが、『ナショナリストであること』は特段の知的負荷を課さない。特段の知的負荷を課さない知的活動を優先的に選択する知性は『あまり知性的ではない』と私は判断することにしている。」
「固有名詞や数値に詳しいのは(政治学者や社会学者の場合もそうだが)、スキームがもう出来上がっている人間の特徴である。『容れ物』の外郭が固定されると、人間はトリヴィアルな情報をいくらでも詰め込むことができる。どのような新しいデータが入力されても、スキームそのものが変化する可能性がないという見通しが立ったときに人間は異様に記憶力がよくなるのである。」
「『学習』とは本来学習する枠組みそのものが学習の過程で解体再生を繰り返すダイナミックな過程である。学習を通じて学習の枠組みそのものには変化が生じない場合、それは『学習』とは言われない。」


という部分については、議論においてイヤな圧倒のされ方をした場面を数々思い出して、さすがにうまく説明するものだ、と思った。
葛藤に鈍く自分の中で「決めつけ」の効いた人が、思慮が浅いのに議論に強い、という嫌な場面を数々見てきた。文字だけを介した、ネット上のコメント、BBS、SNSのコミュニティには、ひときわそういうものが多いように感じる。


思うところはあっても、今は「ただ触発される」だけである。
様々なむきだしの言葉の刃に打たれても、淡々と歩みを進められる懐の深さは(少なくとも今は)ない。
たとえツールが整って作業が容易になったとしても、「世に言葉を発する」ことは、そう容易ではない。


[fin]