多田富雄と恩師と祖父と


昨晩は、実家で夕飯を食べた。


郵便物の半分くらいはまだ実家の方に来る。
この時期には、喪中により年賀の挨拶ができないことを伝える葉書が届く。
それらの中に大学時代の恩師からのものがあった。義理の息子と義理の弟をそれぞれ災害と病で失ったことを伝える、淡々とした、しかし痛々しい葉書だった。陽気で勁い恩師の憔悴した姿が脳裏に浮かんで、しばらく立ちつくした。


夕飯後つけていたテレビが、脳梗塞と闘う多田富雄さんの姿を映し出した。ちょうど私が研究室で実験に取り組んでいた時期に、まさに研究者の世界だけにとどまらない「日本を代表する知性」のひとりとして輝いていた、私にとってのスターだ。「免疫の意味論」は、どんなところでどんなふうに読んだかまで、今も思い出せる。


免疫の意味論


脳梗塞に倒れたことは知っていた。そして、倒れてなお意欲的に執筆を行っていることも。しかし、その姿を目にしたのは初めてだった。
半身の麻痺や嚥下障害、発声・発語の障害との闘いを伝える映像は、奇しくも今の私の仕事において身近に繰り広げられている光景と重なるものであった。
多田さんがトーキングエイドで語る「無念」と「新しくとらえなおした『生きる』ということの意味」。リハビリテーションに見いだす「希望」と、病に倒れる前と変わらない研究の世界との関わり。さまざまな思いが混然としてそこにはあり、そのどれもが生々しく伝わってくるように感じた。
大学での恩師や私の姿、今の仕事…時間軸を失って自分の中にある映像がテレビ画面の中のそれらと混じり合ってぐるぐると回っていた。


その後ろでは、母親が祖父との電話に奮闘していた。
祖父は八十代半ばを過ぎても一人で暮らし、驚異的に創作や後進の指導などをこなすものの、身体は衰えを隠せなくなってきた。「老い」をどこかで認められない祖父は、自意識の強い性格から杖や車椅子などを断固拒否し、しかし自分の考えるスマートな立ち居振る舞いが困難とみるや、すべてそれを「綻び」ととらえて隠そうとする。
祖父の息子である私の叔父も含む「外部の人々」が抱いている「祖父のイメージ」と「実情」のギャップを唯一知っている私の一家は、その溝をいかに埋めるかで、ハラハラを繰り返すようになった。
今や祖父に「意見できる」唯一の人となった母親は、祖父の意識を少しずつでも変えようと、あえて祖父と衝突をする。


昨日ほぼ時を同じくして私の前に間接的にあらわれた3人の大先輩達は、それぞれに全く意識せずしてつながりあい、私に何かを語りかけているように思われた。


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