一人ひとりの歴史の断面


Facebookを使い始めてしばらく。何となく雰囲気はわかった気がする。
知り合いかもしれませんよ、と提示してくる機能が、おっとり刀で入ってきた人を「ソーシャル」の輪に導き入れるのにとても効いている。友達の友達には、最近すっかり忘れていたけれど、そうそう、どうしているんだろうか、と気になる人がたくさんいる。意外な情報がもたらされて、知り合いそれぞれの得意な領域が束ねて共有される面白さがあったり、おもわぬ励ましや励まされがあって力を得たりもする。


私にとっては、「実名主義」であることがこんなにも、つながりの印象を変えるものなのだということが、ちょっとした衝撃だった。
高校や大学までの友人たちが、今どんなふうな人になっていて、何をしているかが、まさにリアルタイムで迫ってくる。それらが顕れるのは、ちょっとしたコメントからだったり、所属先の名前だったり、その人の友人のリストだったりする。
あの時の、あの子は10数年あるいは20数年を経て、こういう風になるわけか、というケースがずらっと目の前に現れる、というのは、なかなかにダイレクトで重い「世界」や「時間」の把握である。


そうやっていろいろな一人ひとりの歴史の断片に直面すると、あらためて相対的に自分が自分の属する世界の中に位置付けられるように感じる。自分のことはよく振り返っているつもりだったが、あらためて「果たして私はこれでいいのだろうか」とつい考えることがある。私はどうなろうとしていていたのだったか、自分のこの10数年なり20数年なりはどう評価できるのだろうか。
ソーシャルメディア」は端末を介しているとはいえ、リアルな「社交界」でもあって、本質的にシビアで残酷な一面を不可避に潜み持っている。


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