重なるもので


子供をめぐる問題というのは、メディアに現れるときには「取り上げざるをえない」相当にシビアなケースが、ややセンセーショナルなかたちになって、ということが多くなる。身近にも(遠近はあってもふつうは)子どもの姿というのは見え隠れしているものだから、それぞれの人々にとってごく近い周辺の「子ども事情」と「メディアに現れるそういった子ども事情」というのが、それぞれの人々にとっての「子ども事情」で、それは実は相当に各人多様なのだけれど、そういうのは不問のまま、なんとなく共有された「世間の子ども事情」というようなものになる。
学校現場で働いていると、(これも学校それぞれで相当に学校間の違い、地域間の違いがあるから、突き詰めれば「世間の」との違いは程度の差でしかないのだけれど、それでも)「子ども事情」についての「自らが接する守備範囲」が相当に広くなるので、様々な事象への直面で鍛えられて、「全容」への想像力はそれなりに裏付けのあるものになる。
こんなことを言うのは、現場に入る以前と以後で、いかにそれまで見ていたのが限られた部分だったかを知り、知らなかった部分について誤解や先入観がいろいろとあったことを反省する、というプロセスが私自身にあったからで、それはまた多かれ少なかれ、子どもに携わる仕事をするほとんどの人が不可避に通ったプロセスであろうとも思う。


私が今働いている現場は、「就労」や「養育上の様々な問題」についてのヴィヴィッドなケースがたくさんあるところに特徴がある。


今日は、異なる2件のケースについて立て続けに、子ども家庭センターや、その他関連の機関のいくつかに立て続けに問い合わせをしたり、その内容について職員の間を跳び回って調整しなければならなかった。普段と同じように授業もあれば、悪いことに放課後には数件ずつ三者懇談をする期間でもあり、文字通り目の回るような忙しさになった。
久しぶりに、遅くまでひとり残って、職場を施錠して帰るはめになった。


そういう状況の時には重なるもので、コーチを務める母校の射場について、管理体制をめぐるなかなかシビアな問い合わせがあったというメールが飛び込んでくる。
内容を詳しく聞くに、ちょっと私一人の手には負えない部分があって、情報収集を進めつつ心当たりのある先達に助言を求めて、あれこれとメールの文章を練る。
回答にタイムリミットが設けられていて、時間がない。一刻も無駄にできない。
ヘロヘロで帰っても、休むわけに行かず、眠い目と動かない頭を無理やり働かせて、思い当たるところにひと通りメールで投げかけをするところまで、なんとか漕ぎ着けて未明に力尽きて眠る。反応が一揃いするまで、下手に動けない感じである。


しばらく緊張感の途切れない日々となりそうだ。


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