1ヶ月という時間


プロ野球が開幕した。
「開幕の延期」と同時に、「震災後1ヶ月をおいて4月12日に開幕する」という決定をパ・リーグはさっと出した。
セ・リーグの「開幕強行」には違和感を覚えたが、その一方でパ・リーグが決めた「1ヶ月後」についても、そのときにどんな「気分」になっているか、ということが不安だった。


消費行動や景気も、つまるところは「気分」である。
予測に応じて「こうすべし」というものがあっても、その気になるかどうかは(もちろん「こうすべし」に引っ張られて変わる部分も多分にあるけれど)、どうやっても回収し分析し尽くすことのない、超多変量の因子に満ちた「そのときの空気」が、相当な部分を左右する。
過去を(たとえば「歴史」として)振り返ったときに、「どうしてそんなことに」と感じる「違和感」は、そのときには当たり前に満ちていたけれど、その後に引いてしまった「空気」や「気分」が、言葉で捕まえにくく、後に伝わり難い故に、生まれる。


今回のできごとは、「1ヶ月」という時間の「長さ」についても、教えられた。


つい先頃、開幕を前に、遅くなったことを詫びながら避難所を回ったゴールデンイーグルスの選手たちの姿は、被災地の人たちを励まし、勇気づけていると感じられるものだったけれど、1ヶ月前にはそれはとても「想像しがたいもの」だったし、文字通り「それどころではなかった」。


いまも状況は相変わらず深刻だ。しかし、傍らで何か違うことに打ち込んでいる姿を「励み」にすることができるところまでは、何かが「戻ってきた」のだと思う。
遅くなった開幕を前に、選手たちが準備をする様子が伝えられるのを見て、素直に応援する気持ちが湧くようになっている。


もちろん人によって、その感じ方に違いはあるのだろうけれども、時の流れとはそのようなものなのだ、ということや「時宜を得る」とはどういうことか、ということについて、私の中に感じ入るものがあった。


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