ドット・コム・ラヴァーズ


ドット・コム・ラヴァーズ―ネットで出会うアメリカの女と男 (中公新書)
吉原真里「ドット・コム・ラヴァーズ」を読んだ。
発刊当初に、ネット上で偶々書評に出くわして、面白そうだなと買ったものだ。その書評に、著者による同名のブログもリンクされていて、そちらは今もときどき読む。


アメリカ文化研究が専門のハワイ大学教授で、特にアメリカ文化史やアメリカ-アジア関係史、ジェンダー論、と本書の著者紹介にある。アメリカ生まれの日本育ち。幼少時より本格的なピアノ教育を受け、音楽の道に進むことを期待されたようだが、学問の道を選び、努力の末アメリカで終身教授資格を得た、という才媛。私よりちょっとだけお姉さん、である。
趣味として再びピアノに向かい始める様子と共に、本書の中で触れられていた「取り組みつつあるプロジェクト」の一部、が最近上梓された。
ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール 市民が育む芸術イヴェント
クラシックの本格的なコンクールとしては珍しい、市民が作り上げる音楽イベント「ヴァン・クライバーン・ピアノコンクール」に関する著書がそれであるが、これもなかなか面白そうで、すでに私の机に積んである。
今では「のだめカンタービレ」のおかげで、すっかり広くそのディティールが知られるようになったが、クラシック音楽をめぐる様々な情景には、(妹が音楽を専攻していたり、一時期お付き合いしていた女性が音楽で海外へ幾度も留学し、やがてピアノを生業にしていった様を、しばらく近くで見たこともあって)どことなく身近さや、今とは全く異なるかたちで何かしら心乱れることの多かった若き日々の記憶からか、惹かれるところがある。


さて、一言でこの本を紹介するなら、match.comという最大手のオンラインデーティングSNSでの男性遍歴を通じて、ある階層におけるアメリカ社会の一断面を見せる、ということになる。
これだけだと、赤裸々な体験告白、とも取れそうなところであるが、そういうものとはちょっと一線を画している。
読み手がそういう関心に牽引されるところがあるものの、読後感はそういうのとは違う、落ち着いたものだ。


こういうことについて書かれたものは掃いて捨てるほどにあるように思われるが、その発信元となる舞台は限られたところに偏っていて、最もその「感じ」を知りたいと思っている「ある階層」で実のところどうなっているのか、というのはわからないままだったりする。ましてそのことについて、露悪的に外から書き立てるのでなく、共感できる視点を持った書き手が自身で語るものは稀である。
そして、そういうものだけが、その「ある感じ」の主たる部分について明らかにしてくれたりする。


これはアメリカという「海外」の状況について「語る」場合に限ったことではなく、ずっと身近な国内のことについても、実は同じだ。
J-POPなんかで飽きるほどに繰り返し描かれる「あるイメージ」は、実は、(相当する人の「数」自体は多いのかもしれないが)非常に限定的なある層からの表現に限られていて、「全般を表す実情」では、ない。
ただそれは、広く流布するために、「それに合わせなければならない」と思わせるような、強迫観念的な「規範性」を帯びる。それ故にそれらはさらに流量を増やして、結果的に「全般的な実情」のようになっていく、というようなものである。
ある領域のJ-POPに深くはまり込むと、心を病んだようになる、という例が結構私の身の周りにはあって、(そういう指摘を当人にはとてもできないけれど)間違いなくそういうことが「傾向」としてある、と私は思っている。
そしてやはり今回と同じように、すでにありふれていることを題材にとっているように見えるものの中に、時にはっとさせられるものが現れ、それは何かしら「立ち位置」や「見方」の違い自体が、何か決定的に違うものを生む、ということを露にするものであったりするのだ。


この本はそういう風に、「一群の型」から外れたところにあって、なんというか、「常識的なもの」、である。
そしてその中には、「サンクスギヴィングからクリスマスにかけての休暇シーズンに浮かび上がる複雑な人間模様」とか「女性がゲイの男性を愛する理由」とか「アメリカの学術出版事情」とか「アメリカ社会で軍が占める位置」という、「遍歴」を通じて語られることで見通しのよくなるアメリカの一面があって、興味深く読んだ。


ミッドナイトコール (朝日文芸文庫)
人文の研究者が書くサイドワーク、としてなんだかよく似た感じを覚えたことがある、とつらつら思い出していたら、もう20年ほども前に、上野千鶴子氏が書いた「ミッドナイト・コール」というエッセイを読んだときのことだった。
本自体は、全然似ていないと思うのだけれど。


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