本を読む本


昨日、娘たちが昼寝をしている間に散髪に行った。
順番を待つ間に、長らく読みかけのままになっていたM.J.アドラー・C.V.ドーレン(外山滋比古・槇未知子 訳)の「本を読む本」を読み終えた。
本を読む本 (講談社学術文庫)
この本は、アマゾンの「おすすめ」で遭遇して購入したものであるが、お勧めされた内容に偽りない、誠実で得るところの多い本だった。


数年ではあるが実験系の研究をしていたので、自然科学の一定の分野については、どんな風に研究が行われて論文が書かれるかが、割合具体的に想像できる。
しかし文科系、それも実践的なものやフィールドワーク的なものではない、資料渉猟が基本になっているような分野については、論文を書くに値する「新しさ」を、どう創造していくのか、あまり見当のついていないところがあった。


これは、そういうことについて語ることを目的とした本ではないのだけれど、読むうちに、「本を読む技術」というのが、そういう研究における「研究技術」そのものなのだな、というようなことを考えさせられ、また理解させられた。


「読む」(読み解く、くらいに言葉を変えておいた方がいいだろうか)に値する本、というものは、そうはたくさん現れない、という立脚点から書物全体を眺め、何らかの概念を捉えなおすにあたって数百冊単位でシントピカル・リーディングを行う、というようなことを、「読む」ことのひとつの到達点に置いている。
内容を理解するために、目次や見出しを糸口としてしっかり活用しているかどうか、等からはじまる「読み方」の手ほどきと、到達すべき状態の説明は、それぞれわかりやすく、頷けるものだ。
果たしてそのようにできているか、そのように読めるのかと、つい自らを問い直してしまう。
最後の一章で、小説は速く読まないといけない、というようなことが明快に書いてあったりするところには、ほっとさせられたりもした。


こういうことを、例えば高校生のころなどに知っていたら、どうだったろうか、と思った。
学問について自分なりに作る大まかな見取り図(というより、それ以前のもっと漠然とした「イメージ」のようなもの)を頼りに、進路などを考えていくわけだが、おそらくそういうものに影響を与えることになったであろうな、と想像する。
難解な本を読む技術 (光文社新書)


「難解な本を読む技術」を読んだときもそうだったが、これを読みかけてから「本はちゃんと読まなきゃ」とがんじがらめになってしまう気味があった。
しかし、こういう本たちから私が受け取った印象の通りにする「律儀な読み方」は、今はちょっとばかり無理のようである。
「あくまで『心がけ』として持っておきながら、気のむくまま本を手にし、読める範囲で読んでいくしかないな」というのが、読みかけてからちょっと寝かせた後の、今の感想である。


多少なりとも時間の融通ができる時期が来るまで、ちょっと先送りだ。
そういうことのできるチャンスを虎視眈々と狙いつつ、頭も身体もその時まで健やかに保っておきたいものだ。


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