もっちゃん


実家に帰ると、両親と夕飯を食べることになる。
両親と、これだけ定期的に一緒にご飯を食べて話をする機会は、最近20年くらいのなかでも珍しいことだろうと思う。
老人ホームにいる祖父の状況を話したり、娘や息子くらいの大きさだったころの私や妹の話になったりする機会が多いのだが、そんな話を端緒に、思いがけず昔のことが話題になる。
あいまいに聞きかじっていた、両親や祖父母の周辺にいた人たちの話を、同じ子持ちの大人となって再び聞くと、新しく気づくことがいろいろある。
今日は、この間とうとう完全に片づけを終えて引き払った、父方の実家の話になった。
隣には、父のひとつ下のもっちゃん、という幼なじみがいたのだが、今日はそちらに話が膨らんだ。


もっちゃんは、小学校、中学校、高校と同じで、一人っ子の父にとっては兄弟のような存在だった。小さいときは、よく二人一緒に祖父に怒られたそうだが、翌日に「きのうはえらいヒットラー怒っとったな」と、けろっと笑いあって、また悪いことをしていたという。今も年に1度は旧交を温め、親しくしているそうだ。


もっちゃんにまつわる話題と言えば、その器用さと、人懐こくてユーモアたっぷりの人柄と、毎日のように家を行き来して一緒だった父との親密さ加減である。
私の父は、機械類が全くダメで、電球の交換も覚束ないくらいの人である。祖父は博学で威厳に満ちた人だったが、盆栽の世話を除けば、これまたちまちました手作業には無縁の人だった。
持って生まれた性質というのもあるだろうが、父がそうなったのは、もっちゃんの器用さとマメさ加減も原因であるようだ。
工作の宿題なんか、小学校のときから全部もっちゃん任せだったと言うし、祖母も祖母で、「うちの子はあかんあかん、お父さんと似たようなもんやから。もっちゃんに頼み。もっちゃんに頼むんがええわ」と、全然父をアテにしていなかった。
母は結婚前、家に行くたびに家にいるもっちゃんに初めはびっくりしたが、そのうちに慣れてしまった、と笑った。
結婚後、父が遠く神戸まで仕事に行っている間に、私の家の電球の交換や電気製品の世話までもっちゃんが立ち寄ってしてくれていたというから、今と当時では、近所同士の人付き合いの形が随分と違っていたのだなと思う。


もっちゃんは技術屋一筋でやっていて、大手の電機メーカーなどから依頼を受けて試作品の制作を請け負うことも多いという。紙やコンピューターの上だけで作られた新しい製品を、最初に実際の形にする仕事、というのは、誰にでも頼めることではないものらしい。
はじめは企業風吹かして偉そうに無理な注文をする人でも、最終的には拝むようにしてもっちゃんに頭を下げ、もっちゃんの方もその上で相当な無理に応えてあげる、というような具合らしい。
そんな独特の仕事柄、大きな会社の優秀な人たちの悲哀のようなものをたくさん見ている。


この頃は父と会うと、出世街道をひた走っては定年前後に亡くなる人の多さや、ほどほどにうまく働いていた人のその後などが、よく話題になるらしい。
相変わらず悪戯っ子のように快活で、歯に衣着せないもっちゃんのことだから、内容の割に湿っぽい話にはまったくならないようで、父からは面白おかしくその様子を聞いた。


父たちの年齢がなせる達観と、それを身に沁みる話として聞けるようになった私。今になったからこそ聞ける話でもあるし、今だからこそ感じられたことも多いのだろう。
身近な人たちの間にも、まだまだ、そんな話がいっぱい眠っているに違いない。


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