身体知

身体知―カラダをちゃんと使うと幸せがやってくる (講談社+α文庫)


内田樹三砂ちづるの「身体知」を読んだ。
三砂さんは、「オニババ化する女たち」の著者である。
社会には女性が「結婚・出産を忌避して社会的な評価を得る」ことを支持、補強する言説は豊かにある一方、「結婚・出産すること」に追い風になるような言説は、「少子化問題」というかたちの、「経済的な」心配事だけになっている。そんな中で、出産の忌避は人間性そのものの危機となっているのではないか、という主張をして、(忌避の結果に「オニババ化」という表現が絡んだことによる多少の誤解も含んだ)センセーションを引き起こした。
オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)


本書はその内容と反響について語りつつ、自在にいろいろなことに言及する。
どれもなかなか興味深い内容なのだが、現在の私自身の生活と重なり合う部分については、どうしても身を乗り出す感じになる。


中でも、「父親」という役割が不可欠であると同時に、基本的につまらないものである、という指摘に、「ああ、やっぱりそうなのか」と手を打ちたくなるような感じだった。
その周辺を拾い書きすると次のような具合だ。


−子どもは母子関係を通じて「存在すること」についての根本的な承認を得たあとに、父親が登場して次の段階での社会的承認のやり方を教えないといけない。
母親の第一の仕事は子どもに向かって「あなたはそのままで祝福されて存在する」ということを確信させることである。しかし、そういう自己幻想だけでは人間は他者とまじわって生きていくことができない。そこで次の段階での社会的承認獲得の方法を教えなければならない(規範、倫理、言語など)。これが父親の役割である。
この二段階にわたる承認の作業は、「分業」によって行われなければならないものである。母親は「子どもを丸ごと承認する」のが仕事であり、その「無限の赦し」機能を担当する母親が、同時に「厳しい社会的ルールの教師」になる、ということはできない。それをすると子どもは混乱する。だから、その機能だけは分離して、父親が受け持つのだけれど、このことから「子どもとの関わり」という面で、父親というのはすごく損な役回りになる。
こういう母性や父性というのは、性の問題ではなく、機能の問題なので、置かれた状況に応じて男であっても「母親」になれるし、女であっても「父親」になれる。ただ、子どもの成長において、この二つの役割が必要だ、ということだけは譲れない部分だー


離婚を経て、子育ての途中から父子家庭をやってきた内田氏は、「父親」の役割から「母親」の役割へ転換せざるを得なかった経験から、「母」の方が圧倒的に重要な性役割であり、その代償に子どもに触れていること自体が快楽であるように関係が構築されている、ということに身をもって気づくことになったという。このくだりに出てくる話には、私にも大いに思い当たるところがあった。


私も相方も、オーソドックスな役割意味論的に(形状は相当に異なるものの)、「父親」色の薄い家庭に育っている(そのこと自体は全く珍しくないことだ)。
相方には異論もあろうが、全般的な寛容の空気をもって薄さを無化する方向へ転じてそれを感じさせなかった相方の家庭と、本来あるべきものの不在としてそれを嘆きつつ母親がその役割も担おうとした私の家庭は、相貌が似通っているだけにそれが相違する部分で対照をなす数少ない要因のひとつとなっている気がしている。


「子どもと密着している母親が厳しく社会的な価値観を教え込み」、「子どもに干渉しない父親が無原則に甘やかす」という逆パターンが子どもにとっては非常に問題が多いのだが、現代の日本にはこれがとても多くなっているのではないか、との内田氏の主張には、断片的には自らにも思い当たるところがあって、強く肯うものである。


ほかにも、ライフステージと年齢に関する部分、例えば、早めに出産・育児をして、その間はそれに専念し、40代でその間の飢餓感をエネルギー源にして仕事に戻る、というライフプランの良さと、そこに必要な仕事を巡る環境の問題など、わが身にひきつけて考えてしまう話題がいくつもあった。


社会史的なものと身体論や生物学的なものが結びつく話には、面白いものが多い。


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