初めての同窓会

会の風景



休日は人気がまばらになり、ごつい街並みがいい感じに落ち着く淀屋橋の一角で、学年規模の再会の機会としては2度目、同窓会としては初めての集まりが開かれた。


90名ほどが集まったその会の終わりの挨拶に、いみじくも
「20年分の反省をさせてくれた」
とKは語った。
それを耳にする前から、どこかほぼその言葉の通りに感じていた。
ずしんと重い再会だった。


この会を知ったとき、「失われた」とあきらめていたものが思いがけず見つかったような楽しみがあった。
しかし近づくほどに、期待と同じくらいに、よくわからない気の重さも大きく感じていた。


何が主で何が副か、ということはないのだろうけれど、自らが少数派にあって隠棲している、というような感覚が中高の6年間には強くあった。
ノリの良し悪しのようなものを基準に、全体主義的なものが幅を利かせる感じがちょっと苦手だった。
そういうものに抗うことの難しさも、6年のうちに肌で知った。


少数派を任じる中にもいろんな奴がいて、そういうのに対して斜に構えるのもいたが、自分の世界をつくり、その中でしっかり楽しみを見出す「作法」をいろいろに持っている人たちもまたたくさんいた。
中には、「自分の世界」が普遍性を獲得するところまで行った、長距離徒歩の企画をやっていた連中や演劇などに身を投じた連中など、猛者もいた。
私はそういう作法に長けておらず、宙ぶらりんになって、居心地悪くふらふらしていたけれど、やがてそういう作法の魅力に気がついて、見よう見まねをはじめることになった。しかし「自分の世界」を借り物から始めるしかなかった私は、なんとなく得体の知れない状態から脱皮できないままに、ずるずる行った。(高校ではじめた陶芸は本当に好きだったけれど)。
そういう作法に長けた人たちを応援する側に回ろうと思ったりもした。
あまりうまくいったとはいい難いが、Dちゃんと文科系クラブの連絡会を作って、文化祭の中で地味で埋没してしまいがちな展示などの発表を、つなぎ合わせてひとつの大きな発表にすることなんかに力を注いだのは、そういうつもりでしたことだ。


自分で呼吸しているような感じが出てきたのは、浪人してしまってからで、年賀状の数なども中学高校時代の友人とのやり取りは本当に少なく、予備校の友人からの方が多かったりする。
しかし、中高の6年間で(当時はあまり前向きには感じていなかったけれど)身につけていくことになった「抑制」の術のようなものは、ある種の「洗練」だったのじゃないかな、という気が今になってしている。


10年前に1度、学年の仲間の集う機会があったが、期待に反してそこは「全体主義的」なものの方が凱旋を挙げることを再認識させられるような場となり、今後もそのような機会はことごとく「宿命的に利用される」のだな、と認識させられた。
自分自身の中で保つ「記憶」のほかには、この中高の6年間は永遠に失われたのだな、と思った。


Mが「顔を見たい」という一心だけから同窓会をしようとしている、と聞いたときは少し驚いた。実家に届いたハガキを見て、全くの一人で取り掛かったらしいことがわかったときには、すごいことをしようとしている、と思った。重い蓋を開けようとする、そのまっすぐな強さがどこまで通じるのか、正直なところ半信半疑だった。
しかしその一方、Mがそうやってやるのならば、「ちゃんとしたもの」ができるのかもしれない、とも思った。


その期待は、裏切られなかった。
三次会では、わずかではあるけれど直接に言葉を交わして、Mくんのまっすぐな思いに触れ、打たれるものがあった。
またそれとは別に、それぞれがこの20年を生きてきたことへの「敬意」のようなものが、接するどの人の中にもあって、「そういうものが育つのに20年くらいがちょうど必要だったのかもしれない」という気もした。


今は、たくさんの再会で生じた、すぐには整理できそうにない重く渦巻くような感じに、悪酔いしたようになっている。
この後当分、折りに触れてそれを解きほどく楽しみができたと感じている。


[fin]