目を惹いた記事:「イチロー10年物語」


イチロー 10年物語 (集英社ムック)
先週のことなのだが、イチロー「10年物語」というスポルティーバの特集ムックを思わず買って読んだ。
スポーツのパフォーマンスにおいて「他を圧する秀で方をする」というのが、どういう風にして起こるのか、という関心は並々ならないのだけれど、そういうことは抜きにしても、とっても格好良くて知的なところがただ好きだ、というだけで、イチローに関する本や番組はよく見る。


今回の一冊は、偉大な現役大リーガーはじめ、さまざまなスポーツマンの、イチローに関するコメントやインタビュー、記録、評論に加えて、グラビアも美しく、デビュー以来節目節目の写真や、さまざまな成績が載っており、しばし時を忘れて読みふけった。
賞賛されるイチローに酔う、という感じだったわけだけれど、その中で、和田秀樹の一文が目を惹いた。
一言でいうと、イチローの言葉を座右の銘にすると鬱になるよ(それでいけてしまうのがイチローのすごいところなんだよ)、という内容で、特集の性質からすこし異彩を放っていたが、頷けるものだった。


言葉は、それが紡ぎ出される環境、その環境に耐えられる資質、その資質が受け入れられる状況を作ってきた(歴史とも言えるような)長い準備期間があって表に現れる。
言葉の裏にあるものを「心がけくらいだろう」と思って精神論的に真に受けすぎると危ない、というようなことは普通(ある程度狡さを身につけているから)自然と迂回されるものなのだけれど、近年はそういう部分でだけ「生真面目さ」が力を得ているようなところがあって(そのくせ分析は疎かだったりもして)、こういう指摘は結構大事になっているように思う。


完全主義が鬱になることなく前へ進んでいけるのは、失敗への寛容さと、基点作りのうまさにある、という結論にこの小論は落ち着くのだけれど、それはそれとして、得られるものは得、励みになるところは励みにし、分析するところは分析する、しかし基本的には面白がり楽しむ、ということでいいんだぜと、どこか「ほどほど」に甘んじてしまう自分を肯定してみたくもなる一文だった。


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