「整体 楽になる技術」


片山洋次郎著の「整体 楽になる技術」を読み終えた。整体 楽になる技術 (ちくま新書)


ノウハウを詰めこんであったり、整体業(?)の紹介だったりするのか、と思わせるタイトルであるが、世の中を支配している考え方や感じ方の変遷が、身体にどんな運動構造や姿勢の変化をもたらしているかを、人文系・科学系の豊富な引用と共に大きなスケールで読み解く、大変刺激的な内容だった。


本の終盤、近代を象徴する「デッドな空間」と、それ以前の身体の実感を基準にする時間観や空間観、近年の「高度に情報化された世界」を対比させて捉えるあたりで、取り上げられる事象のつながりにはっとさせられるものが次々と出てきて唸ってしまった。


本書の中で「デッドな空間」として幾度か取り上げられる、中立で歪みのない空間は、今では発想の基点となっているが、これはごく最近になって現れた人工的な「概念」である。ここから平等という発想が生まれ、やがて「アイデンティティを自分で獲得する」という考えも生まれる。因習からの解放、という光として語られる面を多分に持つ一方で、あらかじめには「何者でもない自分」が、「自由」の謳歌を経るか経ないかもわからない間に、やがて「自分さがし」へ横滑りし、現代における「生きにくさ」・「過酷さ」へと転化する。


高度に情報化された世界は境界の希薄化・境界性の無効化を露にする、それは実体的にも花粉症はじめ、さまざまな自己免疫疾患的な病として世界に立ち現れる。環境情報に敏感になり様々な不安定がもたらされる事象は、「現代特有の症状」の中に数々見られ、そして免疫という生態系が、そもそもそういうものである、という指摘(DNA生態系:多田富雄)へと展開する。
境界の希薄が行き着いた先で、再び身体を内側から生きる感覚が「必要なもの」として立ち上がってくる、という、身体論の興隆に必然を感じさせる、流れの捉え方が面白かった。


それに続く、「進歩主義と身体」の段はさらに、直線的に進む時間の誕生から、前衛の不安、絵画から音楽(ビート)への前衛の移行、能動性・前向きの絶対善化、息詰まる身体の再生産と慢性疲労症候群の蔓延、と鮮やかで、一気に最後まで読まされてしまった。


身体操作的な話では、寝相や疲れたときに無意識にとる座り方などの姿勢から読み取る、身体が自ずと取っている「解決法」の巧みさや、そこから読み取る不調の原因についての部分が大変面白かった。腰椎2番の緩め方として紹介される、身体をバナナのように撓めたり、首をかしげたりする姿勢で、呼吸の深さが容易に取り戻せる、という指摘が、私自身にも見事に当てはまった。「よくない姿勢だから」と忌避している格好なのに、ついそうやってしまっていたのは、なるほど理由があるのだな、と自分の身体に対して感心したりした。


タイトルとちょっと印象が違うな、と思いながらも面白く読みすすめたのだが、読み終わってみると、ああ、なるほどこういうタイトルになるわけか、と、ぐるっと回って戻ってくるような感じがした。


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