花展を見に行く

華展のようす



金曜日の夜、今年度になって初めて、職場で飲み会があり、今年度前半を互いに労った。
今年度は仕事の配分について、これまでも大概であったのに、私に関してはさらに理不尽に偏って、相当にひどい年となっている。管理職も年度が始まってから「しまった」と思っているらしく、いろいろ心配して声をかけてくれるので、なんとか持っているような具合だ。
そんな話はそこではしないが、年配の先生とちょっとまあ「仕事観」みたいな部分の普段しない話をしたり、若手と馬鹿な話で盛り上がったりして一息つくことができた。


飲み会があって、私が夕食を食べない、ということと、土曜日に姪っ子甥っ子の運動会を見に行こう、とうことがあって、相方と娘は金曜日の昼過ぎに実家に帰ってしまった。そちらに私が合流する予定だが、ひとまず今日はひとりきりである。


今日は、久しぶりに50mを撃ってみようかと思っていたのだが、朝起き上がってみると、疲れがどっと出ていてとても行けそうな状態ではない。
ひとりであるのをいいことに、久しぶりにテレビをつけて、だらだらと過ごしてしまった。
昼も遅遅に散髪に出かけて、ふと母親の流派が大きな花展をやっていることを思い出した。
花展は大体、何期かに分かれていて、そのどこかで母親も出展をしている。今日がその日に当たっているといいなと思いながら電話をすると、明後日からの後期出展だという。ただ、今回は合作に参加するので、今の展示を見てくれたらいい、と言われる。


じゃあ、と出かけた。ここのところ大抵何かと重なっていて見に行けてなかったので、久しぶりであった。
若い家元が本格的に采配を振るう、初めての大きな花展で、ちょうど今年は支部発足100周年でもあることから、相当に力の入った展覧会になっていた。
四代目が突然に亡くなられ、華道界の巨星であった三代目のもとで幼くして立てられた現在の五代目。三代目が亡くなられてからの15年は、流派としてなかなか難しい時期だったのではないか、と余所者ながら想像する。
陶芸家でもあった開祖が水盤を花生けに積極的に使うことを提起して興った、盛花を特徴とする元来華やかな流派であるが、今回は、合作を含む大きな作品を数多く配して、さらに力強い印象だった。再び新しい模索に踏み出そうかという、強い意気込みを感じさせる活気に満ちた花展だったように思う。


母が後期で活けることになる作品は、切り立った峰に松が畳み掛けるように生い茂る、大きなパノラマのような大作だった。なるほど、これだとどこを誰が、ということもない。出展者を記したプレートを見ていると、この一つの作品を生けるのにかかる人の数は随分と多いようだが、こういうのは一体どうやってひとつに纏め上げていくのだろうか。
これまで見に行った花展で、母が独りで生けたのでないものを出展しているのは初めてなので、今まであまり大作の生け方など気に留めてこなかったが、一度聞いてみなくては。


せっかく街中まで出てきたのだし、と寄り道も考えたけれど、結局あまり元気がでなくてまっすぐ帰ってきてしまった。


[fin]