新聞記事の効用

新聞記事



先日、長らくの国体遠征から帰ってきて、自分の記事が掲載された新聞を初めて読んだ。会場では優勝した翌朝に、携帯で送られてきた写メールで、娘が一面に出た私の写真を指差している様子を見た。実際にでかでかとトップとスポーツ面に出た新聞を眺めると、これは相当に幸運が重ならないと起こりえないことだな、と、何ともいえない感慨が湧いた。文章にはちょっと変なところもあって、恥ずかしい感じがする。
相方が駅で買ってきてくれた数部とは別に、相方の父がわざわざ新聞社に問い合わせて、たくさん取り寄せたそうだ。その半分を実家に送ってくださって、私の両親は多少なりとも私の「射撃」に気をかけてくださっている人たちに、こんな機会にしかできない「報告」がてら、その新聞を配ったようである。


職場では、帰校後の職員朝礼で自ら報告させられた。管理職からこの新聞のコピーが他の書類と共にゆっくりと回覧されていて、今もまだじわじわと戦果がアピールされている。ずるずると自慢しているみたいなのは気が引けるけれど、万人向けに纏められた文章と、滅多に見せることのない現場の写真が、「射撃」とか「ライフル」という単語が惹き起こすあやふやなイメージにはっきりした像を与えてくれるのは、大変に助かることで、「そういう機会」として十分に活用させてもらうことにした。


今回の記事に関しては、何よりも祖父がとても喜んでくれて、いきいきとした反応が甦り、元気になったのが嬉しかった。
自宅に来ているヘルパーさんに新聞を広げて説明したり、久しぶりに筆を執ってお祝いを用意してくれたりと、嬉しいニュースはこうまで人を元気にするものかと両親は目を瞠ったという。
普段なかなか連絡を取ることのない親類からも、思いがけずお祝いの言葉をいただいたりして、嬉しかった。


めでたいできごとが新聞記事という形を取って、様々に周囲に賑やかな波紋を広げてくれている。


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