アフリカを背負う男とのワールドカップ


日本時間23時に試合開始、というのは、私の生活リズムから言って、最高の時間取りである。
これより早くては家事に障るし、これより遅いと翌日の仕事に障る。


昨日、偶然NHK特集の「サミュエル・エトー:アフリカを背負う男」を観て、あらためて、アフリカの選手たちが背負っているものの重さを知った。
アフリカで初めて行われる大会で、ポスターのモデルになるようなアフリカを象徴する選手が率いるチームと、第1戦で対戦するということの、値打ちの大きさを理解する。


イタリア大会のロジェ・ミラの姿に可能性や夢を見出した少年が、貧困や無理解や人種差別によって自暴自棄になってしまうところを紙一重のところで抜けだし、幸運な出会いと、結果を出すことへの強い意志、類い希なパフォーマンスの積み重ねによって成功を勝ち得ていく姿は、世界の各地で様々な時代に繰り返されてきたもののひとつなのであるが、アフリカでのそれは、その背後にある人の多さ、時間の長さ、標準となる豊かさとの乖離の大きさ、どれを取っても壮絶だ。


日本がワールドカップに出られるようになる前、1990年のワールドカップは、私にとってリアルタイムで目にした最初の大会だった。間近でサッカー好きの同級生が、深夜に放映される試合に熱くなっていたのを機に、ひとつの球技がオリンピックを上回る規模のスポーツイベントになっていることを知った。
今でこそ多少は見所もわかる気がするが、高校生になるまでサッカーの試合自体をまともに見たことがなかった私は、ようやくオフサイドというのがどういうルール違反なのかがわかる程度だった。
マテウスリトバルスキーといった選手の名前と共にドイツが圧倒的に強いことや、マラドーナという強烈なスターがチームを決勝にまで導いてしまうこと、バッジョスキラッチの名前と共に決して大きくないイタリアに世界的に有名なサッカーのリーグがあること、リネカーという選手からどことなくイングランドという国に上品なイメージを持ったりなど、はじめてサッカーに「触れた」のだった。
そのときの台風の目がカメルーンであり、その快進撃を支えたのが、一度は引退し、この大会のために復帰した40歳も間近のベテラン、ミラだった。
アジア勢の姿は早々になく、アフリカ勢が勝ち進むことも珍しいことなのだと、同級生たちは驚いており、南米とヨーロッパばかりの中に一国混じったそのチームに、わたしたちは強い親近感を覚えたものだった。
ミラの名前とアフリカのチーム特有の伸びやかに跳ねるような動きは、「知識」以上の強い印象を残した。


それがただの「強い印象」どころではなく、「生きる力」そのものとなり、闇から頂まで駆け上がる縁とした、ひとりの勇者が、目の前に現れようとしている。


用事を全部片付けて、ささ、試合開始にあわせてとテレビの前に座って観た。
こんな風に番組を観るのは本当にいつ以来だろうか。
日本がどう、とかいうのでなく、それがどんなに日本にとって惨めな試合となっても、ちゃんと見届けたい、というような、妙に背筋が伸びた不思議な気持ちだった。


結果はもう広く知られている通り、1-0で日本が勝利した。
ちらと観た韓国戦のときとは見違えるように、チームが機能していて驚いた。手に汗握り、夢中になった。開始15分と終了間際15分は本当に落ち着かなかった。
はじめてゆっくり見たけれど、本田という選手の力強さと、ボールを持ったときにそこはかとなく感じさせられる安心感に驚いた。
まさか点を取れると思っていなかったし、こんなにきちんと守れるとも思わなかった。
ずっと見ていたにも関わらず、終わってみてへぇー、本当に勝ったのか、とあらためて目を丸くするような気持ちの「勝利」だった。
非難を轟々と受け続けて続けてきた岡田監督のことを思うと、よかったなあ、と思う。
轟々と非難を浴びせてきた人たちにとっては、傍目から知りえることには大きな限界があることを学ぶ、この上ない機会が来たと思うのだけれど、きっと何もわかっちゃいなかったことをあっさり棚上げするのだろうな、とも思った。


カメルーンのチームの中がなかなかうまくいっていないという話はいろいろと漏れ伝わってきていた。
個人競技ならエトーは、きっと文句なく輝きを見せただろう。
この大会に先立って、「彼はまだワールドカップで何もなしていない」と、ミラその人に言われてしまったエトーの無念を思うと、やりきれない気持ちもする。


一介の、大してサッカーに詳しくない、にわか視聴者にもいろいろなことを考えさせながら大会は進んでゆく。


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