「論語」でまともな親になる
長山靖生著の「『論語』でまともな親になる 世渡りよりも人の道」を読み終えた。
論語や儒教が幼少から身近であったか、というと、よくわからない。
それらの言葉がむき出しのままで周囲にあった、という記憶はないが、日本で生まれ育つ中で身につけた考え方には、その断片が自ずと含まれている。
自覚的に孔子なり論語なりを意識したのは、学生時代に呉智英さんの書くものをいろいろ読んだときがはじめだろうか。
あらかじめあるイメージを逆手にとって「封建主義者」を名乗った呉さんは、それらのラディカルで刺激的であることを、積極的・魅力的に紹介する人であったから、それを「入口」にした私は、「論語」を古臭いものだと思う習慣がない。
長山靖生さんは、以前に「一緒に暮らす。」や「若者はなぜ『決められない』か」などを読んで、「へー」と思った著述家だ。本業は歯科医をしておられるようだ。
身近にあるシチュエーションを入り口に、それをどうするのか、それはどういうことか、と考えるスタイルに親近感がある。
私が授業を組み立てるときの発想と似ている、と勝手に思っている。
狭い日常体験の他には経験の乏しい生徒たちに向かって、改まった内容を話すとき、「ちょっと聞いとこか」と思わせるには、それらが彼らの生活実感とつながる糸口を探し出し、それをいかに意味ありげに感じさせられるかに懸かっている。
「論語」というと、「学びのスタート」として取り組まれるもの、とか、身近な大人が子どもに「書を読むこと」を教えるときの教科書、という印象がある。
「じゃあ今の世に、そのような『論語』の使い方はできるのか」という、潜在的な興味・疑問が私の中にあったのだろう。
今回、書店で「長山靖生」・「論語」・「親」という単語がセットになっているのを見て、さっと手が伸びた。
長山さんに抱いていたイメージの通り、実際に論語を使うとすればこうだと、自らの実践を下地にしながら(しかし、それを直接紹介するのではなく)、わかりやすく論語を解きほどく本だった。
入門としては、これ以上にわかりやすいものはないかも、と思わせられた。
子曰、性相近也。習相遠也。
子曰、古者言之不出、恥躬之不逮也。
子曰、其言之不怍、則為之也難。
子曰、先進於礼楽、野人也。後進於礼楽、君子也。如用之、則吾従先進。
衛霊公問陳於孔子。孔子対曰、爼豆之事、則嘗聞之矣。軍旅之事、未之学也。明日遂行。在陳絶糧。従者病、莫能興。子路慍見曰、君子亦有窮乎。子曰、君子固窮。小人窮、斯濫矣。
子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人矣焉廋哉。人矣焉廋哉。
子曰、古之学者為己、今之学者為人。
子曰、不逆詐、不億不信、抑亦先覚者是賢乎。
呉さんの書くものを通じて知った、白川静氏の本や、論語そのもの、またその周辺の書物には、買ったものの手付かずで家に眠るものもある。
この年齢になったればこそ感じられるものが、いろいろ出てきたことに気づかされた。
ぼちぼちこれらにも手が伸びそうである。
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