勤務時間管理


教員には残業手当というものはない。
いくら深夜まで働こうが、定時で帰ろうが、給与は一切変わらないというシステムである。
職員は、タイムカードで出勤時間は管理されているが、退勤時間は記録しない。いかに過酷な超過勤務があってもそれが記録上は一切残らない仕組みである。


「1校」という小さなマクロ単位で見たときに、「8時間×職員数」でまかなえている仕事はどのくらいなのか、自分の忙しさを安易に「基準」にはできないので、よくわからない。
でも、今の職場は、おそらく半分くらいしか賄えていないのではないかと思う。


外部からはきっとあまりそうは思われないのだけれど、各職員の動きをミクロに見ると、学校というところは、職務を職員間で均等・適正に配置することが意外と難しいところである。
表向きの「教えている時間」や「所属する分掌や委員会」などを揃えたところで、あまり意味はない。


実践の工夫や準備に(熱心に)時間を割ける人は、誤解を恐れずに言えば、職場において、ややおめでたいポジションを占めている人たちだといっても過言ではない。
教育って、授業こそが根幹でしょう、と(本当に)思ってくださる方は、正しい。
でもそういう「正しい」ニーズは、やや周縁に押し出されかかっている。「学校で授業を受ける」ことへの期待や熱は、下がって久しい。


下がったのは、教育を受ける側の期待の低下が先か、教育を提供する側の質の低下が先か、それは結論のでるようなものではないけれど、悪い循環がもう相当に長い間続いていて、教育というものに何を期待するのか、よくわからないままに大人になり、親になり、教員になる人で満ちているのはたしかだ。


それでも教員には、教えたいことがあって、そのための探求には元来力を惜しまない人が(今でも)多い。
しかし、そこへエネルギーを割きたいと切望しても、そこから引き剥がされるようにして、官僚的な書類を整える仕事と、学校組織が背負っている様々な事業の「運営」に忙殺されている、というのも長らく続く悪い循環となっている。
(わたしにとって「論外」な人々を視野の外へ追いやれば)多くの良心的な人々はみなそこに心を痛め、遅くまでかかって自らが許容できる水準まで自発的に仕事(官僚的な作業・組織の運営業務・授業の準備)に手をかけてきた。


対外的な(外というのは、保護者や教育委員会といった、大きく見れば「内部」とも言える部分も含めてであるが)、交渉・調整・折衝・文書発行が、最も経験と献身的なオーバーアチーブを要し、それに備える内部調整がこれに次ぐ仕事となっている。そして、授業に備えて準備したり研究したりすることはその次になってしまう。
これらの、実務量・切迫度・責任の重さの総和は相当なもので、しかもこれらに取り掛かれるのは基本的に生徒が帰ってからだから、ほとんどが「時間外」の仕事ということになる。


中には、こういう業務に限りなくコミットせず(その力がない、あるいは良心を前提としたシステムにただ乗りして)教員天国を謳歌する人が少なからずいて、時に世間の顰蹙を買うようなことをやらかし、多くの「良心」をさらに窮地に追いやる。


管理職もある意味、良心の有無に任されるところが多いように思う。
たとえば、労働時間ひとつ見ても、自分の職場の誰がどのくらいの時間働いているかすら、把握する必要がないのだから、「職員の統率者」としてはどこまでもルーズになることができる仕組みだ。


中にはこちらも、オーバーアチーブだけで成立している職場の構造を理解せず、世間の顰蹙だけが怖さに、「ただ乗り組」を目の敵にして、誰が良心で誰がただ乗りか見分ける目もなく、すべての職員を「ただ乗り組同然」に扱って締め付け、職場の活力や雰囲気を完全に崩壊させる方が、このごろは増えているように聞く。
「ヒラ」のときに現場でしっくりこなかった教員が、それゆえにやたら出世欲を燃やす、というパターンが、そういう悲しい存在を生み出すことが多いと聞くが、現場で重宝される人は、その現場で生きることにその仕事の甲斐を見出していることが多く、出世を考えないケースが少なくないこともあって、残念ながらこういう管理職の誕生パターンは珍しくないのだろう。


ひどい「ハズレ管理職」が来てしまったら、その人がいる数年間は、自分が心の病に追い込まれないように、細心の注意を払って息を潜めていなければならなくなる。
不幸にも、こういう管理職の下では、表向きは原因不明とされる病気休職や退職者、女性教員の流産などが実際に出てしまう。上から下への「締め付け」がきつくなるのに、保護者とのトラブルや校内の事故なども増える。そうなってしまうのは、力を持っていて本来ならば「オーバーアチーブ」によってひそかに窮地を救う役割を果たす「良心的」な教員を、つまらないことで疲弊させ続けたり、ひどい場合には自分より目立ったり、諫言を受けることを疎んじて他校へ追いやったりするために、その学校の「教育力」が落ちることが原因である。


抑圧的な雰囲気に苦しんだり、実際に悲劇的な状況に陥ってしまう人を間近に見ることになってしまったことが実際にある。しかし私自身が、本格的に深刻な状況になることは避けてここまで来られた。ささやかで重要な僥倖である。


さて、労災がらみの裁判によるものか、管理職が職員の超過勤務実態を数字的にまったく把握していない、ということがようやく問題視されたらしく、この6月1日から、全職員に退勤時間の記録を取らせるようにと一斉に指示が飛んだようだ。
せっかくあるタイムカードを退勤時にもスリットすることにすれば、実態はこれ以上なくはっきりとわかるのだが、それはなかなか開けられないパンドラの箱のようだ。これまで何の数字的な把握も行われてこなかったので、一体どのくらいなのか、まず見当をつけたいのだろう。全職員に指定のエクセルのファイルを配布して、自分でそれに毎日退勤時間と超過勤務の理由を記録し、提出しなさい、ということになった。


100人近い職員の数値を日々集計する作業が発生し、これが新しい超過勤務の原因となるのだから、何ともいえない指示ではある。それをさせられる教頭がかわいそうで、相談を受けた行きがかりもあって、職員のファイルからデータを吸い上げて自動的に計算する仕組み作りを引き受けた。
昨日、すっかり帰りが遅くなったのはそんな訳だったのだけれど、始めなければならない今日になって、「配布した書式ファイルに間違いがありました」と修正ファイルが届いたという。
いい加減な話である。100近いファイルの差し替え作業をやり直さなければならない。


今後、こういう方向性が、どのあたりに帰結してゆくのかはよくわからない。
すっきりと厳密に、あるルールの下に整理されることが理想的であるとも思わない。
いい仕事は、基本的にはオーバーアチーブなしに生まれてこない、ということがあるからで、そこにそれに見合う報酬が漏れなくつくようになれば、それはオーバーアチーブでなくなり、ある種の腐敗ともなりうる。


客観的な状況の把握を通じて、必要な「余裕」が算出されて、常識的な範囲を大まかに保つようなマネジメントが行われることを期待している。


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