対立と不安とまっとうさ


哨戒艦の魚雷によるものと思われる沈没事件の検証結果が公表されて以来、どうしようもなく明らかになった南北の緊張を前提にしても、今日のイ・ミョンバク大統領の戦争博物館からの会見は、ついにある線を越えてしまったのではないか、という緊迫感を感じさせた。
不安である。
日本がこれに対して、枠組みに沿って単純に反応しているだけで、根本的にはこれに対して、他人事っぽく見えることも、不安である。


FIFAワールドカップが近い。
Jリーグ発足以前は、さしてサッカーについて知らず、今だって大してそのファンというわけではないけれど、アメリカ大会以後、日本代表に対する興味は人並みにある。
今夜、壮行試合という位置づけだと思われる、国内での最後の国際試合、韓国戦があった。少ししか見なかったけれど、しっかり失点のシーンを観ることになった。
全体としても、どうもひどい試合だったようだ。
私のような素人にも、国際試合で勝てる気がまったくしないと感じてしまう、この、どうにも悪い流れや雰囲気というのは、何なのだろう。


出場回数も4回目となり、こんなワールドカップも経験できる、というのはひとつ大きな収穫なのだろうな、と思う。


皮相に都合のいいデータや主観だけ並べて期待をあおり、さんざんに騒ぎ立てる「お祭り」騒ぎを脱して、期待感のない冷めた空気をまとって、しかしその舞台には立つ、というのはなかなか「贅沢」なことであり、ある種の相当な「成熟」なのではないか。
これは事前には想定しにくいシチュエーションだけれど、実はあるスポーツが強くなったり根付いたりする過程で、必ず踏まなければならないステップのひとつなのではないか。
こういう時期を、「贅沢」に、(つまり、せっかく難関を突破して出場できたのに、それを一見成績的には無駄にしてしまう、祝祭の大会でわざわざ国民的に失意や力の不足を経験できる機会を)挟んでこそ、「サッカー」と国民のつきあいの歴史に、やっと厚みが加わってくるのではなかろうか。


みんなが期待し、ある種の手応えとともに、みんなで応援を送るような空気を醸せるようになるときには、きっとそこに本当に強いチームがあるのだろう。
ある程度ファンの目が肥えて、比較できる指標もたくさんある現在の状況の下では、チームの「実力」と、「熱狂」は正しくて強い相関を持っている。


今回の不幸なワールドカップは、少なくとも、「わけもわからず贔屓の引き倒しで大騒ぎする」段階を抜け出た「今」の、ある種の「まっとうさ」を実感させる役割は果たしている。
現在いろいろなことがおかしくなっているこの国の中でめずらしく、サッカーというスポーツを巡る部分においては、人々のまっとうな反応と当事者感覚があるのだな、というような印象を持っている。


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